※この記事は四国の現存天守巡り その1 ~丸亀・松山の続きです。
大洲城
四国の現存天守を見て回ろうと、名古屋から電車で鉄道で丸亀まで行き、レンタカーを借りて松山へ。ただ、松山ではホテルが確保出来なかったため、松山からクルマで1時間くらい南にいったところにある大洲という街で1泊しました。最初「おおす」って読むのかと思ったんですが、「おおず」みたいです。
大洲自体はコレといった特徴の無さそうな小さな街なんですが、昔から伊予の南北を繋ぐ街道と、土佐へと向かう街道の結節点となっている交通の要衝となっており、お城もあったりするワケです。
とはいえ、この天守は現存天守ではなく、2004年に復元されためっちゃ新しいもの。なんですが、明治に入ってしばらくはオリジナルの天守が現存しており、写真や図面などの資料が豊富にあり、それらに基づき昔ながらの工法で忠実に再現されたというもの。鉄筋コンクリとはワケが違う、まさに復元天守というワケですね。
ちなみに大洲城は4層4階、しかし今の建築基準法では木造建築は3階建てまでしか認められないそうで、建設省らとのすったもんだの末、保存建築物として特例で建築が認められたんだそうな。
天守の中を見てみると、とても新しいんですが確かに昔ながらのお城って感じ。これはこれで面白い。
ユニークなのは、1階から2階にかけて吹き抜け構造になっているコト。吹き抜けのある天守って他に記憶に無いなぁ。
あと、各階に柱の提供主が掲示されているのも面白いですね。市民が柱を提供して天守を復元、てなかなかスゴイな。
内部はホントにオリジナルを忠実に再現しているみたいで、階段も現存天守によくあるめっちゃ急な階段そのままです。バリアフリーのバの字もありません。それだけ「オリジナルそのまま」という点にこだわってるんですね。
天守最上階からの眺め。なんか心落ち着く田舎風景だなぁ。
街の規模から見ると、この4層の天守はかなりゴージャスな感じしますけど、どういう成り行きだったんでしょうか。大洲城の城主は結構ころころ代わっているようですが、天守を築いたのは藤堂高虎、脇坂安治あたりの時代とされているようです。
なお、何気に櫓は江戸時代のものが残っていたりもします。
宇和島城
大洲城を見物したあとは、さらに南へ進んで宇和島へ。ここにある宇和島城は現存天守のひとつ。ちなみにこのパーキング目の前にある門は、城の遺構ではなく、家老の武家屋敷の門を移築したものだそうな。
松山城みたいな混み方はしていないんですが、城に隣接するコインパーキングが満車で、駐車待ちになるくらいには混んでました。
城へと上る道中には「宇和島伊達400年祭」という幟を見かけたりもしました。
宇和島城を築いたのは例によって藤堂高虎みたいなんですが、その後今治に転封になった高虎に代わって1615年に入城したのが、伊達政宗の長男、伊達秀宗。そもそも長男が仙台藩を継がずに宇和島に来ているのも奇妙な話ですが、まーなんだか複雑な事情があるんですね(⇒ 伊達秀宗 - Wikipedia)。
天守へ上る道は遠回りだけど緩やかなスロープ、近道だけど急な階段を選べるようになっており、せっかくなので階段に挑みます。ていうか、皆階段だった。
途中には井戸跡もあります。写真撮ってたら、隣にいた子供が「これはなんですか?」と尋ねてきたので、「昔の井戸だよ」と答えたら、「井戸!なんか変!」と叫んでいたのがちょっと面白かったです。
そして天守……はなんだか小さく見える。櫓などが無く、周りがスカスカなせいでしょうか。
しかし、3層3階ながら近くから見るとなかなか立派。今の天守は、伊達の時代に修築されたものみたいです。
今の宇和島市街は大半が埋め立て地の上に出来ているようで、かつてはこの城も西側が海に面していたようで。今だと海から少し離れていますが、昔は全然違う風景だったんでしょうね。
この城の一番のキモは、高虎が築城時に仕込んだ不等辺五角形の縄張りにあるみたい(⇒ 宇和島城 - Wikipedia)なんですが、堀も埋め立てられている今では言われないと気付かないですね、コレは……。堀があった当時でも、幕府の隠密は四角形と勘違いしていたとか。そういう独創的な発想が高虎を築城の名手と言わしめているんでしょうね。
続く。