大須は萌えているか?

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『エヴァンゲリオン』が提示する可能性(エヴァのこれまでとこれから)

みんなもうエヴァQ観たよね?観たね?という前提でネタバレ入れながら書きます。

これまでのあらすじ

  1. 【1995年】テレビシリーズ開始、1話から異常に高いテンション、そして全編に無数に散りばめられた謎と伏線がアニメファンの注目を集める
  2. 【1996年】しかし制作進行の遅れもあって、最終2話で謎解きも伏線回収も一切放棄して「真実なんて人の数だけあるんだ、後はお前ら自身で真実を見つけろ」と説教するような内容が延々と続き、シンジくんは一人で納得して「おめでとう」と喝采を浴びながら終劇。ファン激怒。でもその前代未聞の終わり方に世間の注目が集まり、アニメファン以外にも認知されるようになっていく。
  3. 【1997年】テレビシリーズ終了後にむしろ認知度が高まったことにも後押しされ、ラストをきちんと描き直すべく劇場版『DEATH&REBIRTH シト新生』と、その少し後に『Air/まごころを、君に』(いわゆる「旧劇」)が公開される。しかし、またしても最後に「いいからお前ら現実を見ろ」と説教するような内容となり、挙句アスカがシンジ(≒ 観客)に対し「気持ち悪い」と言い放ち終劇。今度こそちゃんとした終わりが見られると思っていたファンを絶望の淵に叩き落す。
  4. 【1998年】旧劇のDEATH編(テレビシリーズの総集編)をさらにリファインした『DEATH (TRUE)2/Air/まごころを、君に』が公開され、ひとまずこれでエヴァの物語は幕を閉じる。
  5. 【2007年】ヱヴァンゲリヲン新劇場版『序』公開。旧劇の終わり方にもへこたれなかったドMなファンが足を運ぶ。内容自体は旧作とさほど変わらないものの、高いクオリティでのリメイクにまずは胸を撫で下ろす。
  6. 【2009年】『破』が公開され、たくましく成長したシンジくんやポカポカする綾波にファン騒然。「やっと普通の物語としてのエヴァが見られるんだ!」と狂喜乱舞。
  7. 【2012年】『Q』公開。ぎゃああああああああああああああ(←今ココ)

新世紀エヴァンゲリオン』とは可能性だけ提示する作品

『Q』を観たあとに今までの流れを振り返ってみると、新劇ってやっぱりテレビシリーズと旧劇で言いたかったコトをもう一度やってるのかなぁという気がして。

テレビシリーズ、特にあの最終2話で言ってるのって「真実(現実)なんて心の持ちようでどうにでも変わる」というコトなんですよね。それが端的に示されているのが、例えば26話後半の「現実を悪く、イヤだととらえているのは、君の心だ」「現実を見る角度、置き換える場所、少し違うだけで、心の中は大きく違う」とかってセリフ。そしてシンジくんがエヴァパイロットにならずに、綾波やアスカと平和な学校生活を送るという「可能性」が提示されてる(転校生の綾波がパンくわえて「あーん、チコクチコクぅ!」と叫ぶあの一連のシーン)。

これってつまり、ただ他人に流されるんじゃなく自分の心の持ちようを変えて主体的に行動していくコトで、まったく違う可能性が開けてくるんだというコトが言いたかったのかなと。それはつまるところ、現実から目を背けがちなオタク批判であり、自身もオタクである庵野秀明自己批判でもあったと。

それでもなお、真実(エヴァンゲリオンという作品の「答え」)を他人(=庵野秀明)に求め続けたオタクに対し「気持ち悪い」と言い放ったのが旧劇。これというのも、「他人に真実を求め続けるとこうなる」という可能性を提示してるんだろうな、と。

そして新劇場版なんですが、これまでの3作品って連続したストーリーに見えつつも、それぞれの作品でシンジくんの心の持ちようが大きく違っているように見えるんですよね。『序』はだいたい従来通りのシンジくん、『破』は積極的なシンジくん、『Q』は受動的なシンジくん。そしてそれに伴って、物語のトーンも大きく変わっている。つまり、3作品でそれぞれ「違う可能性」を提示しているのかな、と。

んでもって、それぞれのサブタイトルに「(NOT)」が入っているのは、「心の持ち方が変われば、真逆の世界になるコトだってあり得る」というコトを示唆してる……とか。綾波がポカポカする世界もあれば、本も読まず黒いプラグスーツを身にまとう世界だってあるんです。そういう意味じゃ、↓の考察は結構良い線行ってるんじゃないかと思います。

【これは凄い】「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」 スレ住人の考察が面白い!

ただ、「ハッピーエンド」と「バッドエンド」の二択というよりは、「心の持ち方で可能性はいくらでもある」という感じかな。『破』で流れてた『Q』の予告と、実際の『Q』が全然違うやんけ!というツッコミに対しても、「違う可能性の話だから」という言い訳ができなくもなさそうです(ほぼ屁理屈)。

正直それって物語として成立してないだろ、って説もあるんですが、エヴァってのは結局そうやって可能性だけ提示して、あとは観た人が各々の物語として「補完」しなさい、という作品なんですよね。テレビシリーズからずっと。『破』ではエンタメとしての完成度が高くて、エヴァもついにまともな物語になったのかと思ったんですが、『Q』でやっぱりいつものエヴァなんだと気づかされた感じ。

『Q』に見る希望

『Q』ではシンジくんが14年間眠っていたままだったり、エヴァパイロットは14歳の状態から「エヴァの呪縛」により外見が変わらなくなるという設定がありますが、これってのは旧劇が終わって14年経った今でもこうして新劇を観に来てしまうファンとダブらせてますよね。そして、今でもエヴァを作り続けている庵野秀明自身のコトも指しているのかも。

14年経った今でも、結局同じようなコト繰り返しやっちゃってるんだね、と。アスカに言わせれば「ガキ」です。

でも、その同じようなコトの繰り返しの中から、少しずつ変わっていくコトだってできるハズなんです。カヲルくんがシンジくんにピアノの反復練習の重要性を説くあたりはなんとも示唆的。何度も繰り返していくうちに成長していくコトができる。もちろん、漫然と繰り返していてはダメなんでしょうけど。「YOU CAN (NOT) REDO」というサブタイトルはそういう意味なのかなと。

なにより、『序』のパンフレットで庵野秀明が『「エヴァ」は繰り返しの物語です。主人公が何度も同じ目に遭いながら、ひたすら立ち上がっていく話です』とコメントしてますしね。

良かれと思ってやったコトが裏目に出る場合もある。綾波を助けようと思ったらサードインパクト起きちゃったり、カヲルくんの言うコト信じて槍抜いたらフォースインパクト起きかけてカヲルくん死んじゃったり。でも、そこからまた立ち上がれるかどうかで、その後の可能性も変わってくるワケです。

『Q』のラストでは、アスカは「気持ち悪い」とは言わずにシンジくんに手をさしのべた。

人はいきなり変わるコトはできない。「真実は自分で見つけろ」と言われても、やっぱり他人に答えを求めてしまう。14年経ってもエヴァを劇場に観に行ってしまう。でも、そんな同じコトを繰り返している中からでも、変わっていくコトはできるんじゃないの?繰り返しているうちに、あなたに手をさしのべてくれる人だって現れるかもしれないよ……というのが『Q』という作品なんじゃないかな。

なんかこの辺、2002年に所帯を持った庵野秀明の心の変遷が垣間見えるよーな気がしないでもありません。

そしてここから『シン・エヴァンゲリオン』へと続くワケですが、エヴァは最後にどのような可能性を提示するのか。楽しみでもあり、少々怖くもあり……。でも、『Q』のラストで提示された希望を信じたいところですね。