大須は萌えているか?

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『昭和元禄落語心中』最終話を観て

録画したままちょいと観てなかった『昭和元禄落語心中 ー助六再び篇ー』の最終回を観たんですけど、なんだかとても印象的なお話でした。

特に「助六再び篇」を通して言えることだと思うんですが、「老い」について考えさせられる内容になってたじゃないですか。八雲(八代目)が老いてゆく自分に対する苦悩を抱えた挙げ句、9話で助六(二代目)の姿をした死神に邂逅するシーンは老いることの恐怖を感じずにはおれませんでした。

一方で、最終話の小夏や助六(三代目)なんかを見ると、老いるのも悪く無いんじゃないか、って気もしてくる。特に小夏は良い年の取り方をしてますよね。年月が流れれば過去のことは過去のことと思えるし、新しい世代に思いを託すこともできる。

しかし、助六(三代目)が九代目八雲襲名(ややこしい)の席で、全編通してのキーになっている演目『死神』を演じている最中に、図らずも八雲(八代目)と同じように、八雲(八代目)の姿をした死神を見てしまうという展開はゾクッとしましたが。ただ、ここでは寄席が燃えたりはせず、我に帰った八雲(九代目)は夢オチで噺を締めくくる。人はいずれ死ぬけど、落語は死なずに後世に残り続ける。そういう世界の一端を担い、次世代に繋いでいくという立場に居られたのなら、それはなんやかんやで幸せなのでしょうきっと。

そういう意味では、八雲(八代目)も最後はうららかな春の日に、信乃助の落語を聴きながら亡くなったのは救いのようでもありました。ただ、二代目助六はあの世でもウダウダやってて三途の川も渡れずにおるようですが。人の世に未練を残すような形で死んでしまったからでしょうか。

おそらく、私がもっと若い時にこのアニメを観たなら、あんまし興味は引かれなかったように思います。しかし、12年前に父が他界し、自分も押しも押されもせぬ「おっさん」な年齢になってしまった今観ると、なんだかいろいろ考えてしまうアニメでした。

父は仕事をリタイヤする前に亡くなってしまったので、未練はあったでしょうなぁ。それでいて、命日は桜が舞い散る穏やかな日でありました。もうすぐ十三回忌ですが……あの日以来、ふと人生の意味を考えてしまう時なんかもありますが、答えは出ないまま。八雲や助六にとっての落語みたいな存在って、自分にとってはなんなんでしょうねぇ。

まぁ、難しいことはよくわからねぇや。