大須は萌えているか?

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正月だし『鉄血のオルフェンズ』観て人生について考えてみようか

門松は 冥途の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし。

……レコーダーに録画した番組を整理していたら、『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』の12・13話をまだ観ていないコトに気付き、ちょいと観てました。んで、相変わらず日曜夕方放送とは思えない攻めた内容で驚かされました。

鉄血のオルフェンズ』の最初の数話を観た段階では、「主人公が情け容赦無く敵を殺す」という描写に目を奪われ、「これは戦場でしか生き方を知らない少年兵の物語なのかなぁ」なんて思ってたんですが、1クール目最後となる13話まで観ると、「人が生きるということ、死ぬということ」を徹底的に描こうとしている作品、という印象が強くなってきました。

もちろん歴代のガンダムシリーズも戦場が舞台であり、人の生き死にが描かれてはいるんですが、『 鉄血のオルフェンズ』はそこをより深く掘り下げようとしているのかな、と。というのも、登場キャラクターの人生観・死生観が非常にバラエティ豊かなんですよね、この作品。

一番本能に忠実に生きてそうなのはオルガの「兄貴」である名瀬・タービンですが、あれだけ性に奔放なのは自分がいつ死ぬかわからない身だと腹をくくっているからでもあるんでしょう。「人死にが多い年には出生率が上がるんだぜ?」というセリフには彼の価値観が凝縮されている感じがします。

一方でオルガは「生きるとは何か、死ぬとは何か」なんてことを考えないようにしている感じがします。オルガは周囲からの期待に応えるためならば自分が危険に晒されるのも厭わない、というかそれが当然だと考えているフシがあるので、その決意を惑わすような要素は頭から追い出すようにしているんでしょうね。女に興味が無いと言い張るのもそういうコトなんでしょう。

一番極端なのはやはり主人公の三日月で、オルガには盲目的に従う一方で敵と判断した相手は容赦なく殺す、という極端な価値観の持ち主。「こいつは、死んでいい奴だから」というセリフに象徴される、「生きている価値のある命」と「生きる価値の無い命」にバッサリ分けて考える彼の思考は、ナントカ原理主義的な臭いもします。ただ、仲間は大事だけど仲間じゃないヤツはどうなったっていい、という心理はそんなに珍しいものでもないのかもしれません。どこぞの集団暴行のニュースなんかを見てるとそう感じますね。

一番「普通の」人生観を持ってそうなのは、鉄華団のビスケットやタカキ。頑張って働いて、兄弟を学校に通わせたいと願う彼らは、自分自身も長生きしたいと願っているでしょうし、敵であれ味方であれ命を重んじるタイプでしょう。

ただ、ビスケットらがそうした人生観を持ち得るようになったのは鉄華団が組織として軌道に乗ってきたからでもあります。元々彼らは極度の生活苦に追いやられていたり、「ヒューマンデブリ」として人ではなくモノとして扱われたりしていた存在であり、鉄華団の一員となるコトで人生観が劇的に変わったと言ってもいいでしょう。

昭弘の弟である昌弘は鉄華団のような組織に巡り会うことはできず、「自分はヒューマンデブリである」という認識を受け入れざるを得なかった。でももちろん、「普通の人間」として生きたいという思いが強かったからこそ、昭弘に対して呪詛をぶつけたのでしょう。そして彼は昭弘を庇いながら自分の命を投げ出し、一方重傷を負ったタカキは一命を取り留め、仲間の祝福の中で目覚めた。

これだけ多様なキャラクターを通して「人が生きるということ、死ぬということ」を多面的に描こうとする作品は珍しいような気がしますし、それを『ガンダム』という幅広い年齢層が視聴するタイトルでやる、というのは結構スゴイことではないかと。

今の日本では非正規雇用がどんどこ増え、ヒューマンデブリほどでは無いにせよ、駒のように扱われ貧困の喘ぐ人も珍しくはありません。己の存在価値を見失い、自殺する人も相変わらず多い。未婚率は右肩上がりで出生率は右肩下がり、このままだと「家族の絆」みたいなものもどんどん失われていくコトでしょう(いい年こいて独身の私が言うコトじゃないですが)。

鉄血のオルフェンズ』って、そういう世相に対してカウンターを入れようとしている作品のように見えます。そう考えると、これってすげー気骨のある作品だなぁと。『ガルパン』のように「人が死なない安全な戦車戦」というのも作品として面白いものですが、一方で『 鉄血のオルフェンズ』のような作品があるコトは歓迎したいですね。今後、物語を通じて三日月やオルガがどういう成長を遂げるのか、非常に気になります。