大須は萌えているか?

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差別の話

なんか最近WEBで「差別」に関する話題をちらほら見かけたので、なんとなく思ったことをちょっとメモ。

まずそもそも「差別」をどう定義するのかっていう話ですが、とりあえずここでは「なんらかの属性に基づいて、特定の集団や個人を低く扱うこと」としておきます。

で、「差別をしてはいけない」っていうのはその通りだなぁ、と思うワケです。が、「差別を許してはいけない」、さらには「差別的な行動・表現を法律で規制すべき」って話になってくると、なんか雲行きが怪しいなぁ、と思えてくるのです。

まず前提として、人間というのは差別する生き物だと思うんですね。これはどんな人であっても。「俺は人を差別したこと無い」と断言できる人は、「俺はウソとハゲの頭はゆったこと無い」って人くらい信用できません。てか、今私自身が書いた「こういうことを言う人間は信用できない」っていうのも、これ差別してますよね。あるいは、他人の外見的特徴に基づく差別なんて皆すごくナチュラルにやってますよね。「このハゲーーーー!!!」とか。こんな具合に、意識せずとも差別ってしてしまうのです。

なので、これを「許すな」とか「規制しろ」って言ってしまうと、どんどん際限が無くなっていくと思ってて。だって、差別しない人はいないと考えると、どんな人にだって規制の網を掛けることができるってコトになりますからね。オマケに、「差別」の境界線は人によっても異なるし。まぁ、これは既に「ポリコレ棒」という形で話題になってますね(⇒ トランプ氏就任から聞くようになった「ポリコレ棒」ってどういう意味? - ねとらぼ)。

そもそもが「差別主義者を許すな」って言動が差別主義者に対する差別であって、これってもうやられたらやり返す的な泥沼なワケでして。これがエスカレートして行き着くところまで行っちゃうと、あらゆる表現行為ができなくなりかねないレベル。ある意味二次元界隈の表現規制問題よりコワイですこれ。

そういう意味で言うと、「差別をしてはいけない」というのは、法や規則ではなくて倫理・道徳の範疇に置かれるものなんだろな、と。常に自らの念頭に置いて、戒めとするべきもの。他人を殴る道具ではなくて。ヘイトクライムと言われるような行きすぎた差別的言動は、もうそれ自体が既存の犯罪行為に問えるモノも多いと思われますので、それはもう差別とは異なるレイヤーで処理するべき案件ではないかと思います。ただ、日本の場合は「目に見えない差別」のが深刻かもしれないですけどね。

最近、「差別する自由」という誰かの発言を問題視しているブログ記事を読んだんですが(⇒ 「差別からの自由」は「差別する自由」に優先する。よって「差別する自由」などというものはない - しいたげられたしいたけ)、どうしたって人は差別するし差別される。そこから人が自由になることは無い、と考えます。それを各々が自覚した上で、「差別をしてはいけない」ということの意味を考えないといけない。

正直、自分がどれだけ差別的な意識を持っているかなんて自覚している人、ほとんど居ないと思うんですよ。私もそうですが。なので、「差別的な言動をする人」って言われても「自分は対象外」って考えちゃう。「差別を許すな」って言われると、余計に「自分はやってない」と自己正当化を図っちゃう。まずはそこの意識を改めないことには始まらないんじゃないかな、と。

「差別を許すな」と息巻くような言動は、理想を振りかざす余りに、現実と理想の溝をどんどん深めているようにしか見えないのですよねぇ。