大須は萌えているか?

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「怒る」のは難しい

たまたま見かけたnoteから。

私がしてきた「反射的に反論するエクササイズ」|石川優実|note

記事のタイトルは「反射的に反論するエクササイズ」となっていますが、内容的には「反論」ではなく、「人間、怒るときにはきっちり怒らなアカン」みたいな話ですね。「反論する」と「怒る」とでは相当意味が違ってしまうと思うんですが、それはさておき。

人間、いろんな感情の表出方法がありますが、中でも「怒る」というのは結構難易度の高い感情の表出方法なんじゃないかと思うんですよ。「怒る」というのは「自分が腹を立てている、不愉快であるということを語気を荒くして表出する」行為なので、その怒りの矛先となった人物との間になんらかのしこりを残してしまうリスクがあるからです。

もちろん、その人物が赤の他人で、その関係性を気にする必要も無いのであれば、そうしたリスクを気にする必要も無いのですが、これがさらに「怒る相手以外にも、不特定多数の目がある状況で怒る」となると、さらに難易度が上がってきます。というのは、自分が怒っている理由が、その場にいる他の人たちにとっても「それは怒って当然だ」と思えるものなら良いんですけど、一歩間違うと「あの人なんでそんなことで怒っているの?」とか「それは逆ギレだろ」とか思われて、自分の評判を落としかねないから。

ただ、そういうリスクをあまり気にせずに不特定多数の前で怒ることができる場合というのもあって、それはなんらかの集団や組織を代表して怒る、という場合。この場合、自分と同じ集団に属している人たちは自分の怒りを理解してくれる、つまり総スカンを食らうコトが無いという心理的安心感があるので、怒るためのハードルが下がりやすいと言えます。集団でいるとやたらイキるけど、一人になると急に大人しくなる人、わりと居ますね。

ただ、怒るハードルが下がるというのも善し悪しがあって、その集団内では支持されたとしても、その集団の外においても怒りの理由がちゃんと理解される保証が無い点は考慮した方が良いかもしれません。集団内の価値観が、社会通念上のものと照らし合わせたときに必ずしも妥当性があるものとは限りませんので。もしその乖離が大きい場合、むしろ世間的には敵を増やしていくコトにもなりかねません。

TwitterみたいなSNSでは、自分の同じ価値観の人たちとつながり合えるので、そうした「同じ価値観を持っている集団」を代表して怒る、みたいなコトはやりやすい土壌があるように思います。自分と同じ意見の人がこれだけ居る、だから自分は間違ってない。自分が怒ることには正当性がある。といった感じに。ただ、それが世間一般に遍く受け入れられるものかどうかは、また別問題です。もしそれが、その集団の外から見ると正当性を欠くような理由で怒っているようにしか見えないとしたら、その集団全体の価値を下げるコトになりかねないでしょう。

「怒る」というのは「反論」とは違い論理的な行動ではありません。論理とかそういうものを超えて腹が立つから怒るのです(なお、「叱る」の意味で「怒る」という場合もありますが、ここではスルー)。あまり頻繁に怒っていると、「あの人は論理的な話ができない人だ」と受け取られてしまいかねません。もちろん、そもそも相手が論理的な話ができない人で、ひどい侮辱とかをしてくるような相手であれば怒るのも当然でしょう。しかし、集団に身を置いて怒ることに慣れてしまい、悪意の無い相手にまで怒り散らかすようになってしまうと、集団の外からは腫れ物扱いされ、より集団内の価値観に重きを置くようになり、ますます集団の外に向かって怒りやすくなる……みたいなドツボにハマってしまわないかな、と想像したりしたのでした。

大衆に広く共感される「怒り」であれば、時と場合によっては国をひっくり返すような力にもなったりしますけどね。ただ、そこまでの共感は独裁者の圧政で国民の大部分が苦しんでいる、くらいの状況が無いと難しいだろうなあ……。なので、Twitterなんかではハタから見ると「何言ってんだこいつ」みたいな怒りが今日も渦巻いているのでした。インターネット怖い。