大須は萌えているか?

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東京五輪が揺れている今読むと味わい深い一冊 『オリンピック秘史 120年の覇権と利権』

最近読んだ本のアウトプットを全然していないコトに気がついてしまったので、久しぶりに最近読んだ本の話。今回の本はこちら。

日本語版が発売されたのが2018年とのコトなので、直近の東京オリンピックを巡るゴタゴタまでは含まれておりませんが、近代オリンピックの歴史を振り返りながらその舞台裏を探っていくような内容となっております。著者のジュールズ・ボイコフは元サッカー選手でバルセロナ五輪アメリカ代表として出場した経歴を持つ人物。最近だと、東京五輪組織委員会長(元)の森さんの失言騒動に絡んでこれを批判する文章を米NBCIOCに莫大な放映権料を支払っているテレビ局)で発表し、辞任への強烈な後押しをした人ですね。

森氏後任「再び80代の男性なら…」 米専門家が疑問視 - 東京オリンピック:朝日新聞デジタル

私は元々オリンピック興味無い派というか、オリンピックというイベント自体無くしても良いんじゃね?派なんですが、この本を読むとますます「オリンピック無くしても良いんじゃね?」と思えてしまうので困ったものです。逆に言うと、オリンピックというイベントを愛して止まない人は読むとイヤな気持ちになるかもしれません。

私がなんでオリンピック好きじゃ無いかというと、そもそもスポーツ観戦自体に興味が薄い(F1は別)というのもありますが、なんか過剰な建前で塗り固められてる感じがイヤなんですよね。半月程度のイベントをやるために世界のあちこちで巨費を投じてスタジアムの建設やら「選手村」なる住宅建設やらインフラ整備をやって、しかもそこに相当な税金が突っ込まれるのって正直無駄じゃね?って思うんですけど、それを上回る経済効果がどうとか、オリンピックのレガシーがこうとか、国民の健康増進が、震災からの復興が、挙げ句に新型コロナに打ち勝った証が、とか、次から次へとまーいろいろ出てくるワケじゃないですか。ただ、なんかそういうのに欺瞞を感じちゃうんですよね。

巨額な金が掛かるスポーツイベントという意味では私が好きなF1もそうなんですけど、F1はここまで建前酷くないもんね。というのは、F1の開催は基本的に民間で行われているコトだから(開催国にもよるけど)。オリンピックの場合大抵そこに多額の税金が使われるから、そこに使われるお金に説得力を持たせる必要があるもんだからアレコレ建前が必要になる。ただ、その建前が使われる金額の大きさに説得力を持たせられているかというと、そうは思えないんですよねえ。

で、実のところそうしたオリンピックとカネの問題は、実は近代オリンピックが始まった初期の頃から付いて回った問題だった、っていうのがこの本読むと見えてくるワケですね。そしてそこに税金が投入され、その費用に見合うリターンが無いという事象も昔からあったと。

いま振り返ると、ロサンゼルス大会の開催によって地元経済が潤ったことを示す証拠はほとんどない。経費節約、スポンサー料、観客動員数、さらには映画界からの関心の高まりのおかげで一五万ドルの利益を上げたものの、その大半は一〇〇万ドル公債を払い戻し、競技会場となった施設の使用料を市や郡に支払ったことで消えてしまった。ロサンゼルス市は、債券市場における公共債の価格がしょっちゅう変動している時期に、額面を下回る金額を払い戻した。そのために市民の不満がいっそう高まり、ついには市長のリコール選挙が行なわれる事態となった。「市民はこういった政治経済の実験に『うんざり』しきっている」と《ニューヨーク・タイムズ》紙が報じている(69)。オリンピックの開催にかかる費用を公費によって賄い、リスクの大半を一般市民に負わせるその「実験」は、やがてオリンピックの資金作りの主要な手段になっていった。

ジュールズ ボイコフ. オリンピック秘史 120年の覇権と利権 (早川書房) . 株式会社 早川書房. Kindle 版.

ここで言ってる「ロサンゼルス大会」とは1984年のものではなく、1932年のもの。そんな昔から、今と大して変わらないようなオリンピックを巡るやり取りがあったというのも面白い話。いや当事者だったら笑えないけど。

開催地に立候補するときには楽観的な予算を掲げ、いざ開催が近づいてくると予算規模がどんどん膨らんでくるというのも昔からあったパターンのようで、その典型例が1976年のモントリオール大会でしょうか。

モントリオール市長のジャン・ドラポーも、大会をそれほど華美にしないことを前もって告げている。「このオリンピックは莫大な費用をかけた大会にしたくない。このカナダ、このモントリオールでは、オリンピズムの真の精神にのっとった大会をお見せする。簡素でありつつも品位のある、非常に素朴な大会になる」。後日にしばしば言及されることになる発言のなかで、ドラポーはこう主張した。「モントリオールオリンピックは赤字にならない。それは男性が出産しないのと同じことだ」

ジュールズ ボイコフ. オリンピック秘史 120年の覇権と利権 (早川書房) . 株式会社 早川書房. Kindle 版.

何か……非常に似たような発言を東京五輪でも聞いたような……。そしてこのモントリオール市長、当初1億2500万ドルで開催できると言っていたそうなんですが、最終的には15億ドル掛かってしまい、このお金を返済するのに30年掛かったんだそうな。この一件でオリンピックはスポンサーを露骨に呼び込む方向に舵を切り、商業化の色が濃くなっていったというワケですね。んで、1984年のロサンゼルス大会では民間主導の運営となり、大規模スポンサーの囲い込みを行うコトで大幅な黒字化を達成。それを受けて、IOCは今日の「ワールドワイドパートナープログラム」へと発展することになる「TOP」を始動させるワケですね。

その後の1992年のバルセロナ大会なんかは地元への経済効果も大きかった大会として賞賛されているみたいですが、これはオリンピックだけの手柄ではないって指摘もされてますね。元々バルセロナという街が大きな伸びしろがあって、そこに経済環境としてもポジティブな状況があって、そこにオリンピックがうまく相乗効果を発揮した、っていう。要はオリンピックさえ呼べば上手くいく、なんてコトはあり得ないって話なんですけど。

で、じゃあその後のオリンピックはみんな経済的に大成功なのかっていうと、そんなコトは無いワケですよね。その辺の話をこの本では「祝賀資本主義」という言葉で表現しているんですけど、これがなかなか痛烈です。

国際的な祝祭であるオリンピックは、メトロノームのように規則正しく開催され、政治的立場や社会的階級にかかわらず、大勢の人びとを狂喜させる。オリンピック型の祝賀資本主義は、惨事便乗型資本主義と同様に、「純粋資本主義の発展を目指す」ことはない。むしろそれは、公民連携に関する美辞麗句をわれわれに提示する。公民連携によって、国家は不要になるとか骨抜きになるなどということはなく、民間企業の利益の源泉として利用される。楽しい浮かれ騒ぎの裏には罠があって、一般の納税者はリスクを負い、民間企業は儲けをごっそり持っていく。バンクーバーを拠点にする活動家のアム・ジョハルは私にこう語った。「オリンピックは公金をつかって購入する企業のフランチャイズだ(21)」。これこそ祝賀資本主義の相反する本質である。

ジュールズ ボイコフ. オリンピック秘史 120年の覇権と利権 (早川書房) . 株式会社 早川書房. Kindle 版.

要は一部の民間企業がお祭り騒ぎに乗じて公金をガンガン引き出して儲ける一方、そのツケはその他の納税者に回されるというワケです。いざとなれば国がケツを拭いてくれるから予算はどんどん肥大化するし、体面を重んじる政治家はそれを追認してしまうワケですね。最近は「持続可能性」って言葉が流行りでオリンピックもそれに乗っかろうとしているみたいですけど、どこが持続可能なのかようわからんですね。

他にも、「民主化が促進される」なんて期待が語られた北京大会が開催されたあと中国はどうなったかだとか、リオ大会のグリーンウオッシングの問題だとか、いろんな建前のオンパレードで読んでて飽きないです。あと、マラソンの距離が42.195kmになったのはイギリス国王夫妻の思いつきのせいだとか、聖火リレーが最初に行われたのはベルリン大会でありその目的はナチスプロパガンダだったとか、ステキなオリンピックトリビアも満載。

いやーほんとオリンピックってなんなんですかねー。