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『シン・ウルトラマン』を観てきた話(ネタバレ有り)

今シーズンのF1が開幕して以降、このブログにF1の感想記事以外を投稿していないことに気づいてびっくり。そんなワケで、ちょっとF1以外の記事も書いていきたいと思います。とりあえず、封切り日のレイトショーで『シン・ウルトラマン』を見てきたのでその話なんですけども。あ、今回は思い切りネタバレ有りで書きたいので、これから観に行く方はご注意ください。

個人的に、子供の頃一番見ていた特撮シリーズって昭和のウルトラマンシリーズ(再放送)で、ゴジラとか仮面ライダーにはそんなに馴染みがなかったので、今回の『シン・ウルトラマン』もかなり楽しみにしていた……のですが、ただ正直なところを言うと、初見のインパクトという点では『シン・ゴジラ』のほうが衝撃的だったな、という印象です。この作品、アプローチの仕方が「現代日本ウルトラマン(や他の宇宙人や怪獣)が現れたら、人々はどのような反応・対応をするのか」という、『シン・ゴジラ』と同様に現代に生きる我々にとってのリアルさを追求したようなものになっているので、その点においてすでに『シン・ゴジラ』を観てしまっていると、初見での衝撃というのは薄れてしまったかな、と。

ただ、ゴジラと違ってウルトラマンの場合次から次へと怪獣(本作で言う『禍威獣』)や宇宙人(本作で言う『外星人』)が現れ、それを光の国の巨人が倒すという立て付けになっているので、ゴジラと比較してもどうしてもリアリティが低くなってしまう、という辛さはありますよね。個人的には、Netflixでアニメもやっている清水栄一・下口智裕の『ULTRAMAN』なんかは現代的なヒーローとしてウルトラマンを上手く再解釈しているなあと感じて結構好きなんですが、ただあそこまでいくとウルトラマンという作品のエッセンスをかなり大胆に再構築している感じなので、原作を最大限に尊重しようとする庵野秀明のアプローチとしてはこうせざるを得なかった、という感じもします。

ただもちろん、作品としてつまらなかったというコトでは全然なくて、オリジナルの初代ウルトラマンを観ていた人間からするとニヤニヤしてしまうシーンが目白押しだったし、元は30分ドラマとして独立して存在していた怪獣や宇宙人たちを一本の映画としてうまく経糸を通していたなあ、という印象。そのための怪獣や宇宙人のチョイスがまた上手いというか、パゴス→ネロンガガボラという着ぐるみを使いまわしていた怪獣を登場させて、その外観が似ていることにちゃんと意味付けをしたり、ザラブ星人メフィラス星人というウルトラマンに登場した宇宙人の中でもとりわけ知性派(?)な二人を登場させたりしたのは納得感がありました。知名度で言ったら、バルタン星人やゴモラ、あるいはジャミラピグモンといったあたりは出したくなりそうなものですが、そのへんを出さなかったのは逆にこだわりを感じたポイント。

ザラブ星人が変装するにせウルトラマンも、オリジナルでは極端に目がつり上がっていていてひと目見ただけで「偽物やん」ってわかるレベルだったのが、本作ではわりと本物より(?)になっていて「これなら騙されるかもなあ」という感じになっていたのは良かったですね(「悪い宇宙人は目がつり上がっている」というのも、今の時代では問題のあるデザインとも言えそうだし)。それでもよく見ればやっぱり偽物で、あの本物と偽物の線引をどこらへんでするか、というデザインは結構こだわりが感じられました。ザラブの翻訳機がスマホになっていたのも良かったし、ツダケンボイスも良かった。

メフィラス星人もオリジナルではなぜかフジ隊員の弟のサトルくん(子供)相手に地球を譲り渡すように交渉をし始めて、暴力は嫌いだと言いながらサトルくんを拉致監禁した挙げ句に恫喝、それでもサトルくんが首を縦に振らなかったものだから巨大化フジ隊員を暴れさせたり、ウルトラマン相手にキレ散らかすという大人気なさを発揮しておりましたが、本作では人間の姿で現れて日本政府を相手に交渉するという真っ当な姿勢を見せており感心しました。一方で、長澤まさみ演じる浅見弘子を巨大化させてビル街で暴れさせるという原作と同じ振る舞いをみせておりましたが、それも交渉を優位に進めるためのデモンストレーションだったという意味づけをしていたのは上手いなあと。演じる山本耕史も妙にハマってた。

ウルトラマンの造形にもこだわりを感じる一方で、飛ぶときの姿勢はオリジナルのそれにかなり近づけているように見えたのも面白かったですね。飛び上がったときの姿勢のまま地上に降りてくるシーンもありましたが、あれも「原作準拠」というコトなんでしょう。全体的にリアリティレベルを引き上げようとアレコレやっている一方で、こういう当時の特撮ならではの描写をわざと拾って再現しているというのも、本作の面白さのひとつですね。そういや、戦っているときのウルトラマンは一切声を出さない(飛ぶときの「シュワッ」すらない)のは少々意外でした。あれは人間から見たウルトラマンという存在を謎めいたものにするための演出なのかな?

ウルトラマンという存在を謎めいたものにする、というのは、ウルトラマンと一体化した主人公の神永新二の態度にも現れている気がします。オリジナルのウルトラマンでは、ウルトラマンと一体化したあとのハヤタの態度は人間としてのハヤタのままで、ウルトラマンとしての自我はほとんど感じられなかったのに対して、神永はかなりウルトラマンとしての自我が表出している感じ。挙げ句、物語の途中でウルトラマンとしての正体がバレてしまい、本人もそれをあっさり認めるというのはオリジナルと大きく異なる点ですよね。オリジナルではウルトラマンというのは人間とは直接接することなく、異星人や怪獣を次々倒していく正義の化身のような立ち位置でしたが、本作では神永を媒介としてウルトラマンが地球人とコミュニケーションを深めていく、その結果として自分の身を顧みずにゼットンに対して戦いを挑むという精神性を持つに至る、というのは、エヴァンゲリオンも突き詰めて考えればコミュニケーションの物語だったことを考えると、庵野秀明らしいシナリオのようにも思えてきます。

神永の視線から人間とコミュニケーションをする、というのは、光の国の住人は純粋な正義の化身などではなくって、人間と同じ意思を持った一人の生命体なのだというコトでもあるんでしょうし、それがゾーフィが宇宙全体のバランスを考えた合理的判断の帰結としてゼットンを連れてくる、という話の流れにもつながっているんでしょう。それはなぜウルトラマンが地球を守るために戦うのか?という問いに対する答えでもありますし、逆に「正義とはなにか?」という点を改めて問うものでもありますね。そういう意味では、次の『シン・仮面ライダー』ではこの問をさらに深堀りするような内容になるんでしょうし、そこはかなり楽しみです。ていうか、「世界征服を目論む悪の秘密組織」なんて怪獣や宇宙人以上にリアリティのない設定をどのように落とし込んでくるのかっていうのが一番気になっていますが。

そういや、本作のエンドロール見ていたらモーションアクターとして古谷敏初代ウルトラマンの中の人・ウルトラセブンのアマギ隊員)の名前がクレジットされていたのも胸アツでしたね。庵野秀明って、「古谷敏ウルトラマン」に相当惚れ込んでいたものなあ……(『特撮博物館』のときに古谷敏と対談していたときの熱量が半端なかった)。さらに、古谷敏の隣に庵野秀明自身の名前もクレジットされており、これってつまり庵野自身がウルトラマンの動きを演じていたってコト……(むしろやって当然なのかもしれないけど)?本作を次に観るときは、ウルトラマンの動きにより注目してみよう……。声の出演として高橋一生の名前も出ていたけど、これは最後ゾーフィと会話するときのウルトラマンの声かな?