大須は萌えているか?

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ソーシャルメディア上の黙祷と感動デマ話の拡散に見られる共通項

まー今に始まった光景じゃないんですけど、こんなの。

「3.11は1分間つぶやき自粛」 ツイッターで「黙とう呼びかけ」に賛否両論 (1/2) : J-CASTニュース

黙祷するという行為自体は個人の思いに従ってやれば良いと思います。

「黙祷します」「黙祷しました」とTwitterなんかに書き込んだりするのも別に良いんじゃないでしょうか。Twitterに自分の行動をあれこれ垂れ流したりするコトは珍しくないですし。

ただ、これが「黙祷しませんか?協力してくれる方はRTを」となると、は?と思ってしまうワケです。

そもそも黙祷に協力するってどういうコトなのか。黙祷って各々がそれぞれの思いに従って黙して祈りを捧げる非常に個人的な行為だと思うワケですが、それに対してなにをどう協力するというのか。少なくとも、黙祷って他人の求めに応じてするようなもんじゃないでしょう。

そう考えると、「黙祷に協力を」と呼びかける人も、「やりましょう」と孫○義ばりにそれに応じる人も、黙祷という行為の本来の意義には興味ねーんだろうなーなどと思っちゃうワケでして。一分間黙っているだけでちょっとイイことした気分になれる程度のノリでしかないんじゃないかと。

あとね、さらに斜に構えた見方をしてしまうと、こういうノリで黙祷する人って「ソーシャルメディア越しに見せる自分」というモノに自覚的な人が多いんじゃないかなーって。黙祷そのものが目的なのではなくて、「黙祷する自分」をソーシャルメディアで露出するのが目的ってコト。良い人アピールの一環。

一分間黙ることでイイことした気分になれるわ、自分自身の良い人アピールにもなるんだから一石二鳥です。

こういうのって、Facebookなんかでも見られる実話を装った感動デマ話を無条件に拡散させちゃう態度にも通じるモノを感じるんですよね-。

ああいう人たちってその話はデマだと指摘されたあとも「デマだろうと感動することに変わりはない」とか言っちゃうコトも多いワケですが、結局それってその話が真実なのかデマなのかはどうでもいいってコトで、重要なのは「こういう話に素直に感動する自分をアピールする」コトなんだろなーと。

そうじゃなかったら、出所不明な「実話」を右から左にホイホイ流したりしないでしょう。

重要なのは、その行動の本来の意義や話の真贋などではない。自分がどれだけ良い人であり、感受性が豊かであるかをアピールできるかだ。これがソーシャルメディア時代のセルフブランディング()ってやつさ……。