WEBに公開された記事で賛否両論もろもろ(あるいは批判まみれの大炎上)の反応があるような場合に、寄せられた批判や野次や悪口雑言罵詈讒謗に対して筆者が「誤読も甚だしい」とか「そんなことどこに書いているんだ」とお怒りになったりするケースってあるじゃないですか。
最近目に付いたのだと、
錦織選手報道に感じる違和感 : 長谷川豊 公式ブログ 『本気論 本音論』
からの↓
「にわか」連中に告げる : 長谷川豊 公式ブログ 『本気論 本音論』
ですかね。
確かに、記事をちゃんと読み解いてくれた上での批判ならまだしも、自分がまったく意図しない読まれ方した上での批判ってイヤだよなぁ、とは思ったりします。んで、こういう読み手の「誤読」を無くすための方法っていうの、なんか無いかなぁと5秒くらい考えてみたんですが、「無理」という結論に達しました。
「誤読」って結局のところ程度問題で、多かれ少なかれどんな人でもすると思うんですよ。直接面と向かって話をしても誤解されるコトなんてザラなのに、面識も無い人に対して書き手の意図が100%伝わるテキストなんて有り得ない。「俺の書いた文章に誤読をする余地なんて無い」と断言出来る人は、相当な自惚れ屋さんだろうと思われます。
だいたいがWEBに書かれた文章なんて最初から最後までちゃんと読む人なんて全PVの1~2割程度ですよきっと(適当だけど)。多くの人は記事タイトルと本文ナナメ読みして(ヘタすると記事タイトルだけ見て)終わりですよ。商業系ニュースサイトにありがちなひとつの記事を細かく数ページに分けてたりすると、もう大抵は次のページへのリンクをクリックするの面倒くさくなって1ページ目で終了ですよ。
んで、ナナメ読みせずにちゃんと最初から最後まで文章を読み切ったとしても、書き手の視点と読み手の視点を完全にイコールにはできない以上、程度の大小はあれなんらか「誤読」している可能性は高いワケですよ。ある程度まとまった量のある文章の場合は特に。
じゃあ文章をめっちゃ短くすれば解決かというとそうでもなく、前後の文脈を勝手に補完されてとんでもない意味に解釈される可能性だってあるワケです。夜空を見上げて月が綺麗だったから、そのままの意味で「月が綺麗ですね」と呟いたら、なぜかそれを「I love you」と解釈される恐れだって否定は出来んワケですよ。
そんなワケで、誤読をさせないようにするのは無理。所詮、書き手と読み手は他人だもの。
ただ、この手の書き手が「誤読すんな!ムキー!」ってなる案件って、誤読した上での批判が寄せられるからそうなるんですよね。読み手が誤読したとしても、そのままページをそっと閉じただけなら、書き手の精神衛生上にも害は無いワケじゃないですか。それが批判という形で書き手にぶつけられるから、誤読が可視化される。
……と考えると、批判が付きやすい書き方を避ければいいんじゃね?という話になってきます。批判が付きやすい書き方ってなんだよ、って話もあるんですが、代表的なのは「上から目線(に見える書き方)」「不特定多数に対する批判」「違法行為自慢」あたりでしょうか。
冒頭でリンクした記事で言うと、「上から目線(に見える書き方)」「不特定多数に対する批判」が該当するかな。
恐らく普段からテニスの試合中継を観てる人って少数派だと思われ、今回の盛り上がりは「日本人選手が勝ち上がっていると聞いて」食いついた人が過半数だったんじゃないかと思います。あ、でもスポーツの世界大会で観客が自国の選手を応援するのは自然なコトだと思ってます。それが団体競技だろうが個人競技だろうが、世界大会だとやっぱり「国対国」みたいな意識は持っちゃいますからね。
で、上記の記事は「日本人選手が決勝進出!」という盛り上がりに対して
え?錦織選手ですか?ええ、日本になんて住んでませんよ?国籍が日本ってだけで、そもそも在住はほぼアメリカフロリダ州です。「日本人が~」「日本人初めての快挙で~」とか言ってますけど、本人、人生の半分はアメリカですから、本人の中ではそんなに「日本人、日本人」って思ってない可能性すらあるかも知れないですね。
と冷や水を浴びせているワケです。このくだりを読んで錦織のコトをあまり知らずに盛り上がっていた人は「なんだコイツちょっと知ってるからって偉そーに」と思っちゃったかも知れないし、「日本人だから」応援しようとしていた人にとっては自分も含めて批判されたような気分になっちゃったかも知れない。
結果として、マスコミ批判の記事の中に、そのマスコミの報道で盛り上がっている視聴者への批判も含まれてしまったワケです。しかも上から目線ぽい感じで。
この記事の最後には
事実、日本人はこれ程のテニス人口がいながら、4大大会で今まで決勝まで行けた人物は一人もいないのです。
国籍は確かに日本人ですが、錦織選手はフロリダのIMGアカデミーがはぐくんだ天才です。 その才能を見出し、可能な限り早い段階でフロリダに送り込んだ盛田さんの力です。
いつの日か、日本育ちの、日本人がちゃんと世界の大舞台でも活躍できる、そんな時が来ることを祈りたいです。
と書かれており、それを読んで「ああ、この記事の趣旨は日本のスポーツ選手の育成環境の貧弱さと、そのことに触れようともしないマスコミ批判なんだな」と私は解釈したんですが、『え?錦織選手ですか?ええ、日本になんて住んでませんよ?』のくだりが妙に挑発的な書かれ方をしているために、そこだけに反応しちゃった人が結構いたのかな、と。このくだりの書き方を変えるだけで、読み手に与える印象はだいぶ変わると思うんですよねぇ。
しかも、この記事の補足として書かれた記事のタイトルが『「にわか」連中に告げる 』とますます挑発的なタイトルになっていて、もうここだけ見ると「あ、この人わざと炎上させようとしてる……?」と邪推すらしたくなってきます。この記事もそれなりに良いこと言っている部分もあるので、すごく勿体ないなぁと思っちゃうんですが……。
しかしなんですよ、記事の中には
彼を中学生時代から知っているアカデミーの創始者ニックコーチにインタビューをしたときに、印象に残っていることがあります。
「僕は褒めることしかほぼしないよ。スタイルなんてものは人それぞれ違う。自由に楽しんでやれればそれでいいのさ」
僕も中学時代にテニス部だったので、ニックにコーチをしてもらいました。わずか30分ほどだったのに、何回褒められたか。20~30回はポジティブな言葉をかけてもらったことを覚えています。褒められている中に、実は細かく
「素晴らしい!こう動いたら、君の魅力が出るぞ!」
「君の素晴らしさはこうするともっとよくなるぞ!」
褒められてるのに、結果としては助言となる言葉が入ってきます。アガシやシャラポワを育てた人は、一見するとただの人の良さそうなおじいちゃんでした。でも、一つだけ特徴をあげるとすれば、「ほめ上手で認め上手」でした。
なんてエピソードも紹介されており、まさにそれは文章の書き方にも通じるものがあるんじゃないかな、と。「状況を考えれば今のマスコミ報道も理解できる、ただもっとこういう事実も報じると深みが出るよね」とか、そういう書き方なら読み手が過剰にイライラせず、批判がわらわら寄せられるコトも無かった、かも。
でもまーブログみたいな個人メディアだとね、自分が書きたいように書くみたいなところもありますしね。どこまで気を遣った書き方するのかってのは人それぞれですしね。でも、「誤読すんな!」とお怒りの方は、読み手をどうにかするよりも、自分の文章の書き方を変える方がはるかにラクなんじゃないですかね?