大須は萌えているか?

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ラノベだからこそ表現にこだわって欲しい

たまたま見かけたこんな話題。

ダンまち(原作小説)の日本語がひどい

GA文庫からリリースされている小説『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか』(通称『ダンまち』)の1巻を読んでみたら、誤用と思われる表現が多く目に付いた、という話。

私は『ダンまち』を読んだコトが無い(アニメも2話までしか観てないんですが)ので、リンク先の引用部分が実際に書かれていると仮定した上での話になりますが、これは結構キツいなと。いやもうぱっと見で違和感あるレベルなので。

ただ一応申し添えておきますと、小説の表現に「正しい」とか「間違い」は無いと思ってます。事実や思想を正しく伝える必要がある文章(ニュース記事だとか論文だとか)の場合はそれに相応しい、誤解の余地が少ない言葉や表現を選んで書く必要があると思いますが、小説ってその内容をどう受け取るかというのは読者に委ねられているものだと思ってて。

そういう意味で言うと、一般的な文章では「正しくない」とされる表現でも、小説においては必ずしも不正解とは限らないよなぁ、と。例えば主人公の一人称で書かれた小説で「危険が危なかった」と書かれていたとしても、それは間違いとは言い切れず、「こんなおかしな日本語使っちゃうくらい主人公がテンパっている」あるいは「この主人公は国語が苦手」といった意味を読み取るコトも可能なワケです。

こういう「一般的には誤った(もしくは使われない)表現から別の意味を読み取る」というのは小説を読む面白さのひとつでもあります。「こういう表現をしているのは何故だろう?どういう意味があるのだろう?」と考え、想像するのは、小説だけでなく映像や音楽といったあらゆるコンテンツに共通する楽しみですよね。

ただ、これは「コンテンツ内の表現の隅々まで作り手の意図が含まれている」という前提があって成り立つものです。「このコンテンツの作り手は細かいところまで考えて表現しているな」と感じられるからこそ、その表現を読み解く楽しさが生まれる。

なので、小説の文章というのは表現として正しいか正しくないかという点より、その表現に著者の意図を感じられるかどうかが重要だと考えます。もちろん、実際著者が何を意図して書いたのかを正確にくみ取るコトは不可能ですが、その表現に字面以上の意味が含まれているかどうかは、読んでいればなんとなくわかりますよね。

で、改めてリンク先の『ダンまち』の引用部分を読んでみると、……まぁ、ホントに単なる誤用なんだろうな、と。ちょっと気の利いた表現をしようと思ってなんとなく書いちゃった的な。

誤用でも意味は分かるから良いじゃん、という意見もありますが、しかしこうした誤用をポンポンしてしまうというコトは、言ってしまえばこの著者は作品内の表現を軽んじているのだな、と思えてしまうんですよね。そうなると、当然それを読み解く楽しさも味わえない。

ライトノベルなんだからキャラクターとシチュエーションが楽しめればそれで良いじゃん、という見方もあると思います。それはそれで否定しません。ただ、あんまりそういう作品を是としてしまうのはライトノベルそのものの価値を下げてしまうように思えてなりません。

私が初めて読んだライトノベルは多分富士見ファンタジア文庫の『無責任艦長タイラー』だとか『スレイヤーズ!』だったと思うんですが、既存の小説のお作法に囚われない表現の数々に驚くと同時に読んでて楽しかったんですよね。それはやっぱり、ちゃんとそれらの表現に意図があったからだと思います。

時折「ライトノベルの文章はクソだ」みたいなネタがまとめサイトあたりで上がってきたりするコトもありますが、改行が多いだとかヘンテコな読み仮名だとか、そういう表現は大いに結構。むしろ、一般文芸では憚られるようなレベルの実験的な表現をトライできるのがライトノベルの良さなのではないかと思います。

でも、どんな形であれ「表現へのこだわり・意図が伝わってくる」コトが重要。ライトノベルライトノベル流の、表現へのこだわりを持ってて欲しいんですよね。近年めっきりライトノベル読んでない私が言うコトじゃないかもしれませんが……。