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「カッコいい」がもたらす威力がわかる一冊『「カッコいい」とは何か』

Twitterかなんかで見かけて、ふと興味が湧いて買ってみた一冊。

「カッコいい」とは何か (講談社現代新書)
平野 啓一郎
講談社

小説家の平野啓一郎が、タイトル通り「カッコいい」という言葉のもつ意味、そのルーツ、そして「カッコいい」と思う気持ちがもたらす効用、などについて考察している本になります。これ、紙の本は講談社現代新書で、Kindle版はコルクの出版になっているんですね。

本書の冒頭で、著者は「カッコいい」という言葉の扱いについて、以下のように問題提起をしています。

「カッコいい」は、民主主義と資本主義とが組み合わされた世界で、動員と消費に巨大な力を発揮してきた。端的に言って、「カッコいい」とは何かがわからなければ、私たちは、二〇世紀後半の文化現象を理解することが出来ないのである。
にも拘らず、この「カッコいい」という概念は、今日に至るまで、マトモに顧みられることがなく、美術や音楽の真剣な議論の対象とはなってこなかった。文学の世界でも──三島はトリッキーにそれを鷗外礼讃に用いてみせたが──凡そ、真っ当な批評用語としての地位は与えられていない。
これは、非常に奇妙な事実である。

via: 平野啓一郎. 「カッコいい」とは何か (コルク) (Kindle の位置No.73-79). 株式会社コルク. Kindle 版.

つまり、「カッコいい」という概念は現代においてスッゲー普遍的な概念で、コレ抜きには現代の文化を語ることなんでできないのに、マジメな言論の場では全然扱われないのってちょっとヒドくね?ってコトですね。確かに、「カッコいい」っていうとどことなく浮いているというか、やや軽薄なニュアンスが感じられるのはあります。

「カッコいい」がともすれば軽薄なものと見做されがちである、というのは本書でも指摘されており、それは「カッコつける」なんていう言葉に代表されるように、それが実質を伴わない表層的なものである印象を持たれていること、また「カッコいい」ものがいつまでもカッコよくあり続ける保証がない、相対的な価値観であることに起因していると。

しかし、「カッコいい」が表層的な見てくれの良さだけを指す場合もあるものの、もっと本質的な、誰かの生き様を指して「カッコいい」と思うコトがあるのも事実だし、そうして「カッコいい」と思った人に憧れ、大きな影響を受けるのも事実。著者は、

「カッコいい」は、大抵、軽薄で、表面的なチャラチャラした価値のように見做されてきたが、そんなふうに不当に貶められてきたのも、実は、政治的な意図が働いていたのかもしれない。というのも、「カッコいい」存在は、マスメディアを介したその絶大な影響力故に、反対の立場に立つものを脅かすからである。

via: 平野啓一郎. 「カッコいい」とは何か (コルク) (Kindle の位置No.1218-1220). 株式会社コルク. Kindle 版.

とまで言っています。確かに、私も10代の頃にたまたまテレビで観たF1で、アイルトン・セナの走りに「カッコいい!」と思ってしまい、それ以来四半世紀以上F1を見続けてしまっていますしね……。

「カッコいい」の語源は「恰好が良い」であり、これは「あるものとあるものがうまく調和していること」を指していた、とされます。そして、「うまく調和している」かどうかというのは、それぞれのジャンルに精通している人間によって、予め定義された理想像にどれだけ合致しているか、で判断されている、と。

これに対して「カッコいい」は、「恰好が良い」の意味で使われる場合もある一方、それを超越した新しい意味も付与されているとされます。

「カッコいい」にあって、「恰好が良い」にないものの一つは、あの「しびれる」ような強烈な生理的興奮である。これは非日常的な快感であり、一種、麻薬のように人に作用し、虜にする。
そこで、改めて「カッコいい」を次のように定義し直しておこう。
「カッコいい」存在とは、私たちに「しびれ」を体感させてくれる人や物である。

via: 平野啓一郎. 「カッコいい」とは何か (コルク) (Kindle の位置No.1209-1213). 株式会社コルク. Kindle 版.

心理的な表現としての「しびれる」という言葉は昨今あまり使われなくなっている気もしますが(そういやクレイジーキャッツの歌に『シビレ節』ってありましたね)、確かにめっちゃ「カッコいい」ものを見たときにゾクッと鳥肌が立つ様な感覚がある、というのは理解できます。F1でも1993年、ドニントンパークで開催されたヨーロッパGPのオープニングラップ、アイルトン・セナが(以下略)。

著者はこの体感を伴う価値判断=体感主義の成り立ちを、ドラクロワボードレールなどを絡めながら紹介していますが、つまり各ジャンルにおいて一定以上の見識と審美眼を持った人間で無ければ「良い・悪い」の判断ができない、というブルジョワ的な香りのある世界から、「こまけえコトはさておき、自分がティンと来たモノが良いものなんだよ!」という世界へのシフトですね。

体感を重視する価値判断は、「従来の型にはまらない新しいモノ」を評価するときにも役立ちます。理想像が予め定義されていないからこそ、新しいモノに触れたときに「これだ!」と感じ、のめり込むコトができるというワケですね。

日本やイギリスで、初めてロックの洗礼を受けた若者たちは、事前にこういう音楽が聴きたいという理想像を決して有しておらず、説明を求めても誰も答えられなかっただろうが、一聴して、「これこそ自分が求めていた音楽だ!」と発見したのである。だからこそ、幾らマーケティング・リサーチをしても、真に「しびれる」ような「カッコいい」ものは生み出されない。消費者自体が、それを知らないからである。

via: 平野啓一郎. 「カッコいい」とは何か (コルク) (Kindle の位置No.1554-1558). 株式会社コルク. Kindle 版.

スティーブ・ジョブズの名言とされているものに、「多くの場合、人は実物を見るまで自分が何を欲しているのか分からないものだ(A lot of times, people don't know what they want until you show it to them.)」というのがありますが、それに近いモノを感じますね。iPhoneみたいなものを、その発売以前に想像したコトも無かったけど、プレゼン動画でジョブズが持つiPhoneを見て「これだ!」とシビれてましたもんね、私。

また、「カッコいい」という概念が「人倫の空白」を埋める機能も果たしてた、という指摘も興味深いですね。戦中の思想教育から解放された日本人が自由な社会に放り出されて、これからの新しい時代をどう生きていけばいいか?という悩みに対して、「カッコいい」存在がひとつのロールモデルとして機能したと。

既に見てきた通り、「カッコいい」が爆発的に広まったのは、一九六〇年代だったが、戦後、大日本帝国の思想教育から解放された日本人が、民主主義と資本主義が発展してゆく社会で直面していたのも、この「人倫の空白」に他ならなかった。

(中略)

この時、「カッコいい」存在への憧れが、人としていかに生きるべきかという「人倫の空白」を満たす上で果たした社会的機能を、決して過小評価してはならない。

via: 平野啓一郎. 「カッコいい」とは何か (コルク) (Kindle の位置No.2066-2073). 株式会社コルク. Kindle 版.

これは今でも同じで、「カッコいい」と思える人がいると、その人のやり方を真似したくなりますよね。それはファッションとか髪型っていう表層的な部分だけでなく、振る舞いだとか、仕事のこなし方だとか、そういう部分も含めて。だから色んなジャンルのカリスマ的存在が、生き方だとか仕事術の指南書みたいなのを出版するんでしょう。「カッコいい」がビジネスになる一例ですね。

もうひとつ本書で指摘されている内容で興味深いのは、「カッコ悪い」と思われるコトへの恐怖です。人間、自分自身が「カッコいい」存在になりたいと思うコトよりも、「カッコ悪い」存在になってしまうコトへの恐怖の方が強いのではないか、という話。

「カッコいい」存在は、尊敬され、愛される。しかし、「カッコ悪い」存在は、人から笑われ、侮られ、同情され、馬鹿にされる。そして、「カッコいい」と言われるラッキーよりも、「カッコ悪い」と言われるリスクの方が、恐らく一般には高く、またその喜びよりも、ダメージの方が大きい。

via: 平野啓一郎. 「カッコいい」とは何か (コルク) (Kindle の位置No.1634-1636). 株式会社コルク. Kindle 版.

これもまたよくわかる話で……。私も自分をカッコよく見せたい、という欲はあんまり無いんですけど、「みっともないと思われない程度の水準をキープしよう」という思いは常にありますね。この「カッコ悪い」と思われたくない、という気持ちに付け込む商売もまた世の中にはたくさんあり、たとえばファッション業界はその代表例でしょうし、身体的なコンプレックスを矯正する美容整形なんかもそうでしょう。

WEBの記事なんかを眺めていても、「こういうのはカッコ悪いよね」と煽って、読み手の思考を誘導しようというい試みはよく見かけるように思います。ただ、価値観がどんどん多様化している現代において、「カッコいい」ものも人により千差万別になってきていますし、また「カッコ悪い」ものも人によって違ってきているようには思います。また、生まれついての身体的特徴をもって「カッコ悪い」というのは厳しく糾弾されるようになってきていますしね。

こういう現代的な価値観における「カッコいい」「カッコ悪い」のあり方なんかも論じられており、「カッコいい」という言葉の軽いイメージとは裏腹に、かなり読み応えのある一冊でした。他にも、以前に某アイドルグループの衣装の問題でネットでも話題になった、『ナチスの制服を「カッコいい」と言って良いのか?』といった話題も論じられており、「カッコいい」ものが持つ怖さについても考えさせられます。

プロパガンダとして用いられる「カッコいい」はやっかいだよなー……。