大須は萌えているか?

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スマホ・SNS・ゲーム依存について考える2冊『デジタル・ミニマリスト』・『僕らはそれに抵抗できない』

しばらく前に、Kindle早川書房のセールをやっていたときに買ってみた本。

タイトルが表しているように、デジタルの世界におけるミニマリストを目指そう、みたいな内容の本です。私自身、今まで散々PCだのスマホだのタブレットだのを買ってきた人間であり、このブログを始めて15年、現在のTwitterアカウントもすでに10年を超えている有様でして、ミニマリストとは程遠い感じの人間ですし、突如デジタル社会に嫌気が差してこれらのガジェットを放り投げてしまいたくなったワケでもありません。

ただ、ちょっと手が空いたタイミングにふとネットのニュースやらTwitterやらを眺めてしまう習慣が、なーんか無駄に思えてきたのも事実だったのです。いやだってさ、今のネットってノイズが多すぎる気がしてさ。特に明確な目的もなくネットのニュースフィードやらはてなブックマークの注目エントリやら、Twitterのタイムラインを眺めていると、ついついクリックしたくなるような記事にはたくさん出くわすんですけど、そうした記事の内容から自分の血肉になるような知識や知見が得られているかというと、そんなコトは全然無いんですね。

そりゃお前が低俗な記事ばっか好んで読んでるからだろ、と言われると反論のしようもないんですけど、この日常の中で、ふと気付くとスマホを取り上げて、大して有益とも思えない記事を読んでいる自分がいるのです。そういう習慣みたいなものをちょっと見直したいな、という気持ちは結構前からありまして、それもあってこの本を読んでみたのです。

この本では、SNSスマホのメリットを享受する一方で、それらのツールに漠然とした不安を抱くことがある理由をこう説明しています。

それらのテクノロジーは、私たちの行動や気分に及ぼす影響力をじわじわと強めてきた。そしていつしか健全な範囲を超えた量の時間がそれに食われ、その分、もっと価値の高いほかの活動が犠牲にされている。つまり、私たちが不安に思うのは、〝コントロールを失いかけている〟という感覚があるからだ。

(中略)

有益かどうかは問題ではない。主体性が脅かされていることが問題なのだ。

via: カル ニューポート.デジタル・ミニマリスト 本当に大切なことに集中する(Kindleの位置No.283-286).株式会社 早川書房.Kindle版.

まさにそれ。

結果的に、ほぼ無意識にスマホを眺めてしまい、気がついたら時間が経っていた、というコトが何度もあって、そこに漠然と不安を感じるんですよね。主体的に時間を使えていないな、と。これがもし、「今から15分Twitterをやる!」と決めて、きっかり15分でタイムラインから目を離すコトが出来てるなら、こういう不安は感じないんだと思います。

この本も、スマホSNSを全面的に否定しているワケではなく、「自分にとってそれが必要かどうかをよくよく見極めて、厳選したツールを使え」というスタンス。「とりあえず使ってみる」「なんとなく使ってみる」という姿勢を否定しているワケです。まあ、スマホSNSを眺めるコトを「スロットマシンのレバーを引くのと同じ」という具合にかなり痛烈に批判しているので、SNS大好きな人が読んだらかなり気分を害するかもしれません。

そしてこの本では、必要なデジタルツールを厳選するための具体的な手段を紹介しつつ、誰とも繋がらず孤独に過ごす時間の重要性を説いたり、オフラインで会話することのメリットを説いたり、デジタルツールで消費していた時間を圧縮することで生まれる余暇時間により「質の高い」余暇活動をしよう、といったことが書かれているんですが、「いや別に俺は好きでスマホ触ってるんだよ、触る時間減らしたところで他にやることがあるわけでも無いし」という人には、完全に「余計なお世話」としか言い様の無い本です。

私自身、質の高い余暇活動云々、はなんか意識高すぎて鼻につく感じがしてしまい、「うるせー馬鹿」と思わないでもありません。ただ、時間の使い方を主体的に決めよう、という趣旨に関しては大いに頷けるものでありましたし、その点においてこの本を読んで良かった、と思いました。1日のうちで、「無駄遣いしても良い時間」を予め決めておく、というのも手ですね。

私の提案はこうだ──質の低い余暇活動に費やす時間をあらかじめスケジュールに入れておこう。つまり、そのための時間を先にブロックしておいてネットサーフィンやソーシャルメディアのチェック、配信動画の視聴などに充てるのだ。この時間帯には何をしてもかまわない。ネットフリックスでドラマを立て続けに視聴しながら、ツイッターでその模様をリアルタイムでツイートしたいなら……どうぞどうぞ。ただし、この時間帯以外はオフラインで過ごそう。

via: カル ニューポート.デジタル・ミニマリスト 本当に大切なことに集中する(Kindleの位置No.3386-3391).株式会社 早川書房.Kindle版.

この本を読んだあと自分が試してみているのは、iPhoneの「スクリーンタイム」を使ってTwitterRSSリーダー、ニュースアプリを見る時間を制限すること。これらを1日1時間までとし、平日は自宅のiPadやPCからもTwitterRSSリーダーは(絶対に……とはいえないけど)見ない、としています。すると、意外とそれで十分な感じですね(たまにブログ書く時間は別枠です)。1日30分にしてしまってもいいかもしれない。ただ、通勤時にKindleで本を読んだりしているので、iPhoneを眺めている時間はそれなりなんですが。

私の場合、もともとSNSには過度に深入りしないようにしていたっていうのもあるかもしれません。それでも、ついネットをダラ見する習慣は抜けきらないんだから、SNSにどっぷり浸かっている人は1日に何時間くらい費やしているんでしょうか。

あとついでに、上記の本の中で紹介されていて、ついそのままポチってしまった本がこちら。

『「依存症ビジネス」のつくられかた』なんていうタイトルにもあるように、SNSソーシャルゲームが引き起こす依存症について論じた本ですね。ゲーム依存症については、香川県の条例問題なんかでもずいぶん話題になりましたが、あれは依存症そのものの問題というよりは、「そもそもそれは条例で定めるようなものなのか」「条例の成立プロセスがうさん臭い」といった部分で炎上していた印象。

この本では、「何らかの悪癖を常習的に行う行為」を「行動嗜癖」と呼び、以下のように定義しています。

現代の定義では、「依存症・中毒・嗜癖(addiction)」のことを、本質的に悪いものと考える。行動に依存していると言えるのは、それをすることで目先の利点がありつつも、最終的には害のほうが大きい結果になる場合だ。呼吸せずにいられなくても、あるいは積み木に注目せずにいられなくても、それによって有害な結果にはならないので、行動嗜癖とは言えない。嗜癖とは、害があり、それなしでいることが難しくなった体験に、みずから強く執着することだ。物質の摂取を伴わずとも、強い心理的欲求を短期的に満たし、その一方で長期的には深刻なダメージを引き起こす行動に抵抗できないとき、それを行動嗜癖と呼ぶのである。

via: アダム・オルター.僕らはそれに抵抗できない(Kindleの位置No.487-492).ダイヤモンド社.Kindle版.

ただ、スマホの普及によりネットはあらゆる人にとって身近な存在となり、私のように無意識にスマホを眺めてしまう、なんていう人間は珍しくもありません。それを全部依存症扱いしてしまうのはどうなのよ、という話もあるワケですが、著者はこう反論しています。

だが、そもそもスマートフォンをこれほど魅力的にしている要因は何なのか。スマートフォンが現代人の生活全般におよぼす役割は大きくなる一方なのだから、そこに構造的な抑制と均衡を導入するべきではないのか。大勢にかかわりのある症状が、もはや昨今の常態になりつつあるからといって、深刻でないとか、許容してもいいということにはならない。その症状とどう付き合うのか判断するためにも、まずは理解しなければならないのだ。

via: アダム・オルター.僕らはそれに抵抗できない(Kindleの位置No.547-551).ダイヤモンド社.Kindle版.

依存症患者として治療が必要だ、という話ではないけれど、多くの人がスマホに関わる行動嗜癖を抱えている状況なのは確かであり、まずはその状況を理解する必要がある、と。確かに、生活が成り立たなくなるレベルで依存してしまっている人はごくわずかだとしても、仕事中でもついSNSに時間を費やしてしまうだとか、数時間に一度はソシャゲを立ち上げないと気が済まないだとか、そういう状況に陥っている人はかなり多いように見受けられますね(艦これやってた時の私もそう)。

この本は3部構成になっており、第1部では「依存症とはなにか、人はなぜ依存症になるのか」といった内容、第2部は「依存症になるメカニズム、人を依存症にさせる仕掛け」についての解説、第3部が依存症から脱却するための解決策、という立て付けになってます。

まーこの本も、ちゃんと節度を持ってゲームをプレイできている人なんかが読むと「うるせー馬鹿」と言いたくなるコト請け合いなんですけども、「惰性で」とか「なんとなく」でSNSやゲームに時間を費やしてしまう人は読んでみると面白いかもしれません。中でも印象的だったのは、ケント・ベリッジという神経学者がドーパミンと依存症の関係について行った実験に関するくだり。

ベリッジらの実験が明らかにしたのは、薬物に対する「好きであるということ(好感liking)」と「欲しいこと(渇望wanting)」は別物であるという事実だった。好きなだけでは依存症とは言わない。依存症患者というのは、摂取している薬物が好きな人のことではなく、むしろ生活を破壊する薬物への嫌悪感をつのらせながらも、たまらなくその薬物を欲しがる人のことなのだ。渇望は好感とは比べものにならないほど排除しにくく、だからこそ依存症の治療はこれほどまでに難しい。

アダム・オルター.僕らはそれに抵抗できない(Kindleの位置No.1613-1618).ダイヤモンド社.Kindle版.

例えばアレですね、ゲームに対する興味はもう失われかけてるんだけど、これまで育て上げたキャラを無駄にするのも勿体ないからプレイしてる、だとか、SNS上での人間関係のしがらみで続けてしまっている、だとか、そんな状況が思い浮かんでしまったのでした。

「好き」でやってるなら良いんですよね。それがだんだん、「義務感」みたいなのになってくるとヤバイ。実はこれについて、この本ではAppleWatchのようなウェアラブル端末についても警鐘を鳴らしているんですよね。

適度な運動と節度ある食事を守る一番健康的なアプローチは、それを楽しむことだ。サラダを味わうとか、ハンバーガーを食べて自宅でごろごろするよりも30分の散歩をするとか、そうした行動を自主的に好む習慣を育てることだ。ところがカロリー計算や歩数計算は、この内発的動機を曇らせる。数値目標を達成することでしか健康になれない、というシグナルを送っているからだ。

via: アダム・オルター.僕らはそれに抵抗できない(Kindleの位置No.3272-3275).ダイヤモンド社.Kindle版.

要は、目標となるカロリー消費量だとか歩数だとかを数値で決めるコトにより、その数値を達成するコトに視点が集中してしまい、逆に「運動依存」を引き起こす可能性すらある、というコトなんですね。

ただ、個人的にはちょっと反発する気持ちもありまして、というのも私の場合、AppleWatchによって運動習慣を身につけることができたからです。自主的には根付かなかった運動習慣を、AppleWatchの手助けで根付かせるコトができた、という思いがあるんですよね。ただ、数値に縛られてしまうというのは確かに否定できません。今日は疲れてるからさっさと家に帰って寝たいけど、まだ消費カロリーが目標に届いてないから1km余分に歩こう……とかね。

結局のところ、こうしたデバイスには功罪両方あるってコトなんでしょうね。この本の第3部でも、ゲームは「ゲーミフィケーション」という形で人に良い習慣を根付かせるツールにもなる、という話をしてますし。

テクノロジーを捨てることはできないし、捨てるべきでもない。テクノロジーが行動嗜癖をあおっていることも事実だが、テクノロジーが人生に奇跡や充実をもたらしていることも事実だ。だとすれば、依存を促さない思慮深いデザインをしてくこともできるはずではないか。持ち主にとって必須の、しかし病的なのめりこみを生まないプロダクトや体験を作ればいい。

via: アダム・オルター.僕らはそれに抵抗できない(Kindleの位置No.5514-5517).ダイヤモンド社.Kindle版.

まあ、SNSの運営企業や、ソーシャルゲームの開発会社は営利企業なので、なんの制約も無ければ「人をのめり込ませる」コトに注力したプロダクトを生み出してしまうのはある意味仕方の無いコトではあります。そうした企業のあり方を考えていくのも大事かとは思いますが、まずは受け手である自分自身の意識を変えるのが一番手っ取り早そうでもあります。

すなわち、スマホのようなデジタルツール、SNS、ゲームといったもののもたらす功と罪を見つめ直すこと。それらに対して、自分が主体的に取捨選択をして、時間を使えているかを常に問うこと。これは、「SNSやゲームは麻薬といっしょ、一切手を出してはならぬ」という思想とは分けて考えるべきでしょう。0か1かではなく、いかにそれらのツールやコンテンツを自分のコントロール下に置くか、というコトですね。「麻薬並みの中毒性があるので、使う時は常に意識しようね」というのは、個人的な経験からしても頷けるところです。やっぱりね、エンディングの無いゲームは駄目ですよ、ええ。