大須は萌えているか?

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俺の弾正がこんなに格好いいわけがない: 今村翔吾『じんかん』を読んだ話

久しぶりに読書ネタ。私はふだんあまり小説を読まない人間で、芥川賞とか直木賞とかのニュースにも大して感心が無いんですが(これでも一応元書店員なのだ)、今回は珍しく直木賞のニュースに興味が湧いたので、第163回直木賞を受賞した馳星周『少年と犬』……ではなく、最終候補にノミネートされていた今村翔吾『じんかん』を読んでみたのでした。

なんでこの作品に興味が湧いたかと言えば、松永久秀を主役に据えた作品だっていうから。松永久秀は今年の大河ドラマ麒麟がくる』にも登場する大和の戦国武将ですが、「戦国三大梟雄」のひとりとして名前が挙げられ、「裏切り者」のレッテルが貼られるコトも多い人物。「主家乗っ取り・将軍殺害・東大寺大仏殿焼き討ち」の「三悪」を犯した人物として語られるコトも多く、忠誠心・信仰心のカケラも持ち合わせていない悪人、というイメージが付きまとうワケです。信長に仕えたあとも二度裏切ってますしね。

そんな久秀なので、なにかの物語に登場したとしても主役の扱いではなく、横からしゃしゃり出てきて物語を引っ掻き回す「ヤバイおっさん」という役どころになりがちなワケで、今まで久秀を主役にした物語ってのを聞いたコトが無かったので興味が湧いたのでした。

そしたらまあ、この小説の久秀が「悪人」のイメージを全部ひっくり返すような、忠義に厚い主人公然とした人物に生まれ変わっておるワケですよ。物語は織田信長が又九郎という小姓に、久秀自身から聞いたという生い立ちを語る体で進んでいくんですが、それが久秀の少年時代から語られているのが面白いですね。史実の久秀はその生い立ちが明らかになっていないので、このくだりはまるっと創作になるワケですが、この少年時代に形作られる価値観がその後の久秀の人生を決定づけており、その価値観を元に久秀の「三悪」を読み解いていくと、なるほどこれは久秀自身は悪く無いな……という説得力が生まれてくるワケです。

そもそも、「久秀=裏切り者」というイメージが強くなったのは江戸時代に作られた説話集などによるところが大きいようで、久秀の肖像として必ずといっていいくらい紹介される『太平記英雄伝』の錦絵もそのイメージに拍車を掛けている感じがします。

近年では史学の側面からも久秀は必ずしも「悪人」では無い、という指摘はされているようで、そもそも久秀は主君だった三好長慶の存命中に叛意を示したコトはなく、将軍・足利義輝暗殺にも直接関わってはいないとも言われ、東大寺の大仏を焼き払ったのも久秀が命じたという記録は残っていないんですね。この小説で描かれている久秀像は、そうした史学的な側面から久秀を見つめ直し、より「人間」として魅力的にブラッシュアップしたものなのかなと。

この小説のタイトルである「じんかん」も漢字では「人間」と書きますが、「じんかん」と読んだ場合、一人の人間ではなく、この世そのものを指すみたいです。

人間。同じ字でも「にんげん」と読めば一個の人を指す。今、宗慶が言った「じんかん」とは人と人が織りなす間。つまりはこの世という意である。

via: 今村翔吾.じんかん(Kindleの位置No.1316-1318).講談社.Kindle版.

この小説の久秀は、人の欲とはなんなのか、この世がなんのためにあるのか、というある種宗教的な真理を追い求める求道者のようなところもあり、ただそれを観念的な世界に追い求めるのではなく、実際に世を動かしている権力の中枢に近づくことで確かめようとしています。久秀が茶の湯に傾倒したのも「人」を理解するための手段のひとつとして描かれており、これは面白い解釈だなと。従来の久秀のイメージだと、茶の湯に造詣が深いっていう部分がどうもしっくりきませんからね……。茶の湯を通じて得た人脈が役立ったコトもあったんでしょうし、信長に茶器を献上してご機嫌取りをしてたりもするので、そういう実利的な側面もあったのかもしれませんが。

ただなんだ、この作品の久秀があまりにカッコ良く描かれているので、逆に浮世離れしている感もあります。従来の松永久秀像をいかにひっくり返しつつ史実上の出来事との整合性を保つか、という思考実験的な作品って感じ。そういう意味では「悪人」としての久秀像とのギャップを楽しむ作品とも言えます……が、逆に「松永久秀って誰それ」っていう人が前提知識無しでこの小説を読んだ場合、果たしてどういう感想になるのかっていうのはちょっと気になりますね。

久秀に限らず、後世の価値観によって歴史上の人物や出来事の評価がコロっと変わるのは良くあるコトで、歴史というものをニュートラルに受け止めるコトがいかに困難であるか、というコトも思い知らされる一冊でした。