なんか定期的にこういう話題が出ているような気がしないでもない、尾崎豊の話。
四万人近いファンが葬儀に参列したカリスマの死から、もう十九年になる。若者の孤独と怒りを歌い、人気絶頂の中、二十六歳で急死した歌手尾崎豊さんを追悼する「尾崎ハウス」(東京都足立区)が、取り壊されたという記事を感慨深く読んだ
▼十代の「代弁者」といわれた尾崎さんだが、最近の若い世代には通じないらしい。ゼミで尾崎さんの歌詞を一緒に読んだ私大の教授は、失笑する学生ばかりだったことに驚いていた
▼十年近く前、精神科医の香山リカさんが学生に調査した内容を思い出す。「何を怒っているのか分からない」「ひとりよがりで不愉快」などと否定的な意見が多く、尾崎さんの歌詞に共感できるという学生は百人のうち二人だけだったという(『ぷちナショナリズム症候群』)
私は尾崎豊の直撃世代じゃありませんし、盗んだバイクで走り出したり夜の校舎窓ガラス壊して回ったりもしてないんで、尾崎豊の歌詞に共感できるかと言われればぶっちゃけできないんですけども。
ただ、尾崎豊って彼自身が強いメッセージ性に溢れた存在だったんじゃないかと思うのですね。彼自身の生き方とか、価値観とか。そしてそれをものすごくストレートに曲として表現している。そういう尾崎豊という人間の存在を踏まえて彼の曲を聴くと、悪くないなとも思うのです。
その尾崎の歌詞だけを切り出して、予備知識の無い人間にポンと見せて共感できるかと問えば、そら共感できないでしょうと。尾崎豊の歌ってのは、彼の人生の切り売りみたいなもんだから。彼の生の感情を剥き出しにした歌詞をいきなり見せられては、そりゃシロッコ様だって不愉快になろうというモノです。
それに尾崎を「十代の代弁者」とか言いますが、80年代当時だって順風満帆な学生生活を送ってた人は尾崎の曲に共感を覚えていたとは考えにくい。今の大学生だってつつがなく受験を乗り越えて学生やってるワケですから、行儀良くまじめなんてできやしない尾崎の心情は理解できんでしょう。尾崎の歌がアリかナシかって、世代の問題だけじゃ無いと思うんだよなぁ。
個人的には、大学とかじゃなくて、地方の偏差値的にちょっとアレな高校なんかで尾崎の曲が受け入れられるかやってみて欲しいですけどね。しかし今って、大学進学率だけは妙に高くなって、表面上ドロップアウト組という存在がどんどん目立たないようにさせられてる感じだからなぁ。でもそれって表面上目立たなくなってるだけで、校舎の窓ガラス割られてた時代よりも怖い気もするんですけど。
でもアレですよ、氣志團が流行ってたとき、私某地方のCD屋併設の書店で働いてて、「One Night Carnival」とか聴いて「いまどきこんな曲誰が買うの……」と思ってたんですけど、地元のヤンキー兄ちゃんたちがぞろぞろ買い求めていって世界の広さを思い知らされましたよ!
なんとなく、京都のレトロビーバーにあった尾崎豊のギター再掲しときますね。