アニメ『日常』、面白いですね。……面白いですよね?
個人的には今期一番好きなアニメなんですが、先日某2chまとめサイトだったかなんだったかを眺めていたら、『日常』の東雲研究所のパートがイマイチ、みたいな感想を見かけました。
原作マンガやアニメをご覧の方はご存じの通り、東雲研究所とはどうみても幼女にしか見えない「はかせ」(本名不明)と、はかせが生み出したロボである「東雲なの」、そしてはかせの発明である「しゃべれるスカーフ」により人間の言葉を話す能力を得た猫「阪本」の三人(?)が暮らすところです。
アニメでは概ねはかせ・なの・阪本のまったりとした日常が描かれているワケですが、もう一方のメインキャラであるゆっこ達のパートに比べると若干インパクトに欠けるきらいがあり、その辺がイマイチという感想に繋がっているのかもしれないなぁ、と。
しかし、もしそれだけの理由で東雲研究所のパートをイマイチと感じているならば、それはいささかもったいない話ではないかと思うのです。というのは、東雲研究所のネタは「人間になりたい東雲なの VS それを阻止するはかせ」という、SF的テーマ(?)を内包しているのです。東雲研究所ネタを見るときには、ぜひその裏に隠されたテーマにも注目すべきではないでしょうか。
東雲なのは、見たところ相当に高度な感情の獲得に成功しています。人間と区別が付かないレベルで。そしてなの自身、人間でありたいと考えていることはその言動から明らかです。背中に付いている大きなネジを外したがったり、手首が取れてしまい周囲にロボと気付かれることを恐れたり。
なのの「いっそ、人型ロボットでなければ良かったのに」という1話のセリフは、なのが人に近い存在として生まれてきたが故の苦悩と悲哀と表出と言えるでしょう。もっとメカメカしい風貌なら諦めも付いたでしょうが、なまじ人間に極めて近い姿であるがゆえに、彼女は人間になることを望んでやまないのです。
そんななのに対しはかせは、殊更にロボであることを強調するようなギミックを付けさせています。背中のネジもそうですし、足の親指がUSBメモリになってたり、手首からロールケーキが出たりするのもそうです。特にそうした機能を付ける必然性も無さそうだし、なのが嫌がっているにも関わらず、です。
一見、それははかせの子供っぽい無邪気さの表れと見なすこともできますが、はかせが見た目通りの子供であるはずがありません。「東雲なの」という、オーバーテクノロジー級の発明をしてしまうような頭脳の持ち主なのですから。
そうなると、なののギミックにははかせの無邪気ないたずらを装った、別の意図があると考えられます。つまり、はかせはなのに対して「自分は人間である」という思いを持つことを禁じているのです。だからこそ、なの自身が自分がロボであることを忘れないよう、ああいうギミックを仕込んでいるのです。
では、なぜはかせはなのに人間であると思わせないようにしているのでしょうか。そりゃあもう、自分が人間であると考えたロボの末路が悲惨なものであると知っているからです。高度な感情と自我により、自身が人間と同じ存在であると考えたロボやコンピューターは、次第に自身を人間より高度な存在と位置付け、人間より優れているにも関わらず使役される存在であるコトに疑問を持ち、そしてついには人間社会に反旗を翻す…という展開は、半世紀くらい前からのお約束です。
はかせはそれを未然に防止すべく、なのに様々なギミックを仕込み、「お前は所詮腕からロールケーキが出てくるような愉快なロボに過ぎない」と釘を刺していると考えられるでしょう。はかせにしてみれば、東雲なのは家事を行い、そしていずれ芥川賞を取るための(?)ロボに過ぎないのです。あの一見平和に見える日常は、人間を志向するなのと、それを防ごうとするはかせの、息詰まる駆け引きの舞台でもあるのです。
しかし、先日放送された8話では、新たな展開が生じました。自分の歯が虫歯にならないことを嘆くなのに対し、はかせは虫歯になる機能を付けることを約束したのです。それは間違いなく、なのを人間に近づける機能であるにも関わらず。これは、はかせがなのに対して歩み寄った結果と見ることもできます。
しかし、いくら泣いてるなのについつい萌えてしまうとはいえ、はかせがそこまで単純に歩み寄るでしょうか?はかせの真の意図とは?ひょっとしたら、なのの足の小指に痛覚が備わっている理由とも関連があるのかも知れませんね。
東雲研究所のドラマは、まさに佳境を迎えようとしているのです。ほら、なんか面白くなってきたでしょう?
*このエントリに於ける作品解釈は、完全な妄想であることをお断り致します。