大須は萌えているか?

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「ペドフィリアの社会的責任」についての雑感

なんか最近、Twitterはてなブックマークなんかで「ラブドール」だの「ペドフィリア」だのという言葉をちらほら目にして、何事なのかと思ったら「少年の姿形をしたラブドールを購入・使用したレポ漫画をTwitterアップして、その最後には『実在の児童に手を出す前に、ぜひラブドールを』みたいな文言まで含まれていた ⇒ 炎上して削除」という騒動があったようで。

んで、この漫画の作者と、それを取り巻く人々に対しての批判が綴られたnoteの記事を読みましたが、頷けるところはそれなりにありますし、頷けないところもありました。

私は明日海賊にはなれないが、小学生を襲うことはできる。“社会的責任”を茶化すのはマズいぜという話|四谷三丁目|note

児童の姿形をしたラブドールって少し前にも話題になってたような気がするんですよね、海外含めこうしたラブドールを規制しろ、という動きがあるとかっていう話で。

児童型ラブドール、続く論争 日本でも廃止署名に2000人…一方で慎重論も: J-CAST ニュース【全文表示】

個人的にはこうした「児童型ラブドール」の利用者=小児性犯罪者だとは思いませんし、こうしたラブドールを規制すべきで無い、と思ってます。規制したところで小児性犯罪が減るとも思えませんし。また、「ペドフィリア」であることが差別の理由になるのもダメでしょう。実在する児童に害を及ぼさない限りは、なんの罪も犯してないワケですし。

ただ、小さな子供が居る親などにしてみれば、SNSで悪びれもせず小児性愛を大っぴらにしている人間が居た場合に、なんらかの危惧を抱くであろうコトは想像に難く有りません。ましてや、『実在の児童に手を出す前に』なんて言っちゃうと、状況次第では実在の児童に害を及ぼす可能性がある、と受け取られるのは当たり前の話です。もしかしたら「同好の士」に向けた軽いジョークのつもりだったのかもしれませんが、それ以外の人間からすればジョークには見えません。

ただこれって、ペドフィリア云々というのは本質では無いんじゃないか、って気もするのです。例えばこれは児童型ではなく大人の女性をかたどったラブドールとか、あるいはTENGAでもなんでもいいんですが、そういったアダルトグッズを紹介しつつ『ムラムラして実在の女に襲いかかる前に、ぜひ』みたいなコト書いたらふつーに炎上すると思うんですよ。この発言の迂闊さについては、ペドフィリアだからっていうのは副次的なものだと思ってます。

上記のnoteには

ハッキリと言えば、小児性愛者は「自身の性的嗜好の、子どもへの加害性」を自覚し、社会的責任感を持って慎重に振舞う必要がある。

「自身の性的嗜好そのものが、加害性を伴っている」という自覚である。

(中略)

あのレポート漫画には、この自覚どころか「理想を言えば実在の児童と性的に触れ合いたい」という思いが感じられてしまう一文で締められていた。 それを公開しても問題ないと判断することそのものが自覚のなさの表れと言えるし、すなわち社会的責任感を欠いているのである。

via: 私は明日海賊にはなれないが、小学生を襲うことはできる。“社会的責任”を茶化すのはマズいぜという話|四谷三丁目|note

と書かれていますが、これは小児性愛以外の性的嗜好も加害性を伴うことはふつーに有り得るし、逆にいうと「ペドフィリア=加害性がある」と断じてしまうのは違うように思います。「実在の対象に手を出したら必ずアウト」という意味では確かにイコールになり得ると考えるコトもできるんですが、ほとんどの人はその「超えてはいけない一線」を弁えているでしょう。そういう弁えている人も一緒くたにして「加害性がある」と断ずるのは差別だと思うんですよね。

つまり、これって対象が児童であれ大人であれ、例え本人は冗談まじりのつもりでも、実在の人間に対する加害欲求をほのめかすような行為が咎められるべきであり、「ペドフィリアだからダメ」というのは違うんでないかなと。なので、ペドフィリアの人が持つべき「社会的責任」がその他の人間より重い、という論調には賛同しかねるところ。ただ、色眼鏡で見られがちな行動をSNS等で公開する場合、その公開範囲はより慎重に検討したほうがよい、というのは確かだと思います。もちろんこれもペドフィリアに限定した話ではなく、一般論として。

それから、このnote記事の後半に書かれている「フィクションから受ける影響」について。

まず、認めてほしいがフィクションは現実に影響を及ぼす。認めてほしいが、というよりみんな認めているでしょう。だってこれが、「海賊漫画にあこがれて航海士になりました!」って話なら、みんな喜んで受け入れるでしょう、きっと。

(中略)

だけどもこれが、犯罪を助長するだのなんだの、要するに「悪い影響」への言及となると途端に、「フィクションに影響されたりしません」って論調がたっくさん出てくる。それはダブルスタンダードというやつだ。

via: 私は明日海賊にはなれないが、小学生を襲うことはできる。“社会的責任”を茶化すのはマズいぜという話|四谷三丁目|note

良いにつけ悪いにつけ、フィクションが人の意識に影響を及ぼすのは当然の話ですね。「フィクションから悪い影響を受けることは無い」という主張があるのなら、それは間違いでしょう。ただ、これはありとあらゆることに言える話でもあります。自分の親や友人といった人間関係からも強い影響を受けるし、テレビで流れているニュースやワイドショーからも影響を受けるし、とにかく自分の目や耳に飛び込んでくるあらゆる情報から影響を受けている。もちろんそれを意識的・無意識的に選別はしているんですが、自分の行動や意識を左右しているものが単一のコンテンツによるものだ、と言えるような単純な話では決してあり得ないワケです。

なので、誰かが罪を犯したときに、その犯人が影響を受けたコンテンツをやり玉に挙げるという良くあるムーブには大反対。あくまで罪を負うのは、身の回りにある様々な情報から影響を受け、そこから取捨選択した結果として行動を起こした犯人自身であるハズです。もし犯人が接した情報なりフィクションなりの罪が問えるとしたら、犯罪を直接的に教唆するようなものくらいでしょう。

ただ、このnoteの記事で一番主張したかったのであろう内容については理解できます。

しつこいけども、我々オタクも「オタクコンテンツの嗜好者」である前に、社会構成員だし、成人なら社会的責任を負っている。
ケースバイケースの「悪い影響」を危惧する声が上がるのは、社会において必然である。それについて我々が社会的責任感を伴う客観的な視点を持てないなら、大喜利大会を開いて茶化し続けるなら、その果てにあるものは、社会的信用の失墜からの一律の法的規制である。

via: 私は明日海賊にはなれないが、小学生を襲うことはできる。“社会的責任”を茶化すのはマズいぜという話|四谷三丁目|note

フィクションの影響について危惧する声があがるのは必然なんだから、その声に対して真摯に向き合わず茶化すようなことばかり言うのは止めようぜ、というワケです。自分から見て「間違っている」と思えるような主張でも、相手がそれを真剣に言っているのであれば茶化すような発言は慎むべき、というのは理解できます。そこからは何も建設的な議論は生まれず、ただただ分断を拡げていくだけですからね。これはもうペドフィリア云々は関係無い、社会的な礼儀の話。

私も時として、ネットで見かけた主張に対して冷笑的な態度を表に出しちゃうコトがあるんですが、限度を弁えないとイカンですね。

ついでに

蛇足ですが、はてな匿名ダイアリーにて上記noteを批判する記事を見かけまして、これはこれで興味深い視点がありました。

確かに「小児性愛」はアメリカ精神医学会やWHOによる定義で「性的嗜好」に分類され、精神障害とされている。
しかし「同性愛」もアメリカ精神医学会には1974年まで、WHOに至っては1993年まで「性的嗜好」であり精神障害だとされてきた。
現在「小児性愛」を「性的嗜好」で病気だと叩く人間は30~50年前だったら「同性愛」を「性的嗜好」であり病気だと叩く人間であろう。戦中であれば戦争反対を唱える者には非国民と罵声を浴びせたことだろうし、1950年代には漫画を悪書として校庭で焼いたであろう。

via: ロリコン・ショタコンを叩く連中が持つ差別心とその自覚の無さ

要はその時々の時代背景によって、なにが正常でなにが異常かという定義なんて変わっていくんだから、小児性愛の異常性を殊更に批判してみせるのは間違いだ、というワケです。これは確かになあ、とは思うんですが、しかしふと疑問に思うのは、仮にペドフィリアの人が小学生と堂々と交際できる世の中が訪れたとして、その交際相手がどんどん成長して高校生・大学生となっていったときに、それでもまだちゃんと恋愛対象になり得るんですかね?

ペドフィリア」と一口にいっても様々な類型があるんでしょうし、児童から大人までOKって人もいれば、児童だけしか受け入れられないって人もいるんでしょうけど、もし後者の方が多いって話になると、これが世間的に受け入れられる余地は少ないように思います。だからこそ、ペドフィリアの人たちは自分の内側に苦しみを抱え込んでしまうことになるのでしょうけど。