大須は萌えているか?

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『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を観てきた話(ネタバレありあり)

シン・エヴァンゲリオン劇場版』観てきました。月曜封切りというサラリーマン泣かせな日程の上、仕事のタイミング上有給を取りづらい日だったコトもありいつ観にいこうか思案したのですが、やっぱりちょっとしたネタバレも無い状態で観たかったので月曜最後のレイトショーで観ることに。おかげさまでこの記事書いている本日は寝不足です。

とりあえずネタバレ無しの感想をざっと書こうかと思ったんですが、正直ちょっとしたことでもネタバレになりそうだし、すでにWEB上に大量のネタバレ感想が展開されているのでまあ良いか、とネタバレ有りでファーストインプレッションを書こうかと思います。

まず、事前に懸念された上映時間の長さはあまりネックになりませんでした。直前にトイレを済ませて、売店で購入したジンジャーエールも物語後半に入るまでは一切飲まないという作戦で尿意に振り回されるコトはありませんでしたし、物語自体の没入感も高かったので冗長さを感じるコトも無かったですし。まあこの辺は個人差あるかと思いますけども。

映画の感想を一言で言うなら「わかりやすかった」でしょうか。いや、物語に散りばめられた無数の設定やギミックが全部わかったなんてコトを言うつもりは毛頭なくって(正直エヴァだけでもマークなんちゃらとか大量に出てきて覚えられん)、物語のコアというか主題の部分ですね、ここがとてもわかりやすくなっていた。つまりそれはテレビ版から旧劇、そして新劇の序破Qと続いて来たエヴァンゲリオンという作品を貫いてきたテーマであり、それを改めて懇切丁寧に、真っ正面から描いていたという印象を受けました。

それはつまり人間の成長の物語であり、人間が成長するためには前を向くこと(過去・狭い視野に囚われないこと)、自分の頭で考えること(他人に正解を求めないこと)、自分を好きになること(内罰的にならないこと)、社会性を獲得すること(社会の構成員としての責務を果たすこと、他人と適切なコミュニケーションを図ること、独り善がりにならないこと)が大事なんだよ、みたいなコトを説いている非常に素朴なものだったりします。その素朴なテーマにサービスゥしまくった脚色を加えて出来上がったのがエヴァンゲリオンという作品で、これはテレビ版の時からまったく変わっていないテーマだと思っています。しかし、このテーマは素朴であるがゆえに誰にとっても人生に付いて回る問題であり、それらをすべて満たすコトが難しい問題でもあり、だからこそエヴァという作品が社会現象を巻き起こすにまで至ったのでしょう。

テレビ版のときは制作陣に物語を描ききる余力が無くなってしまい、結果として「自己啓発セミナー」などと揶揄されるコトにもなった最終2話が物議を醸したりしたワケですが、結果としてあの2話にエヴァのテーマが詰め込まれてたりもするんですよね。

今作の中でテレビ版の最終2話の演出をなぞるようなシーンがあったのは、「エヴァのテーマはテレビ版の時から変わっていないのだ」という宣言であるようにも見えました。全編を通して恐ろしく手間が掛かっていそうなこの劇場版の映像のラスト近くにも、あのテレビ版を彷彿とさせる原画そのまんまのカットや、(あえてチープさを狙っているかのような)劇中劇のようなカットを入れて「エヴァンゲリオンとはアニメだ、フィクションだ、現実ではないのだ(だからこの世界にいつまでも囚われてはいけない、そしてこの物語の「正解」は観ているあなた自身で見つけなくてはいけない)」と強調して見せていたのは庵野秀明総監督の意地のようなものすら感じましたね。ラストバトルで「シンクロ率無限大」みたいな厨二くさい設定を入れてきたり、マリがエヴァンゲリオンマークなんちゃらを『ソードマスターヤマト』のごとくヤケクソ気味な勢いで取り込んでいくシーンなんかも、敢えて物語の虚構性を強調しているように見えました。

そしてエヴァ庵野監督のプライベートフィルムという側面が強い作品であるというのも良く知られた話で、エヴァの主要キャラクターは庵野監督の人格を切り出して投影しているなんてのも良く言われる話。そしてその世界観は、庵野監督の心象風景が色濃く反映されている。つまり、庵野監督自身が大人になれない自分の中身をさらけ出してもがいている作品という見方もできるワケで、そりゃあ精神すり減らしながら制作するコトになっちゃうよなあ……っていう。だからこそ作品にある種の生々しさがあり、そこに我々は惹かれたのだと思うのですが。

なので、エヴァって世界が滅ぶか滅ばないかってレベルの話が展開されるのに、描かれる世界の範囲はずいぶん狭いんですよね。基本的に敵が向こうからどんどん攻め込んでくるのを防衛する話だし、第3新東京市ネルフ以外の人々が描かれることは非常に稀。そんな作品なもんだから、今作で「第三村」の一般の人々の生活風景がかなりの時間を使って描かれたことは一番の衝撃だったかもしれません。つまり、庵野監督の人格とは関係無い「第三者」が過去作ではあり得なかったようなボリュームを使って描かれている。このシーン観たらもう「エヴァがキレイに終わろうとしている……!」と確信しちゃいますよね。庵野監督自身が「エヴァという殻の中に囚われるのは止めだ」と宣言しているのに等しいので。

まあ「そっくりさん」のアヤナミが就農体験を通して社会性を学んでいく一連のシーンはベタすぎる気もしましたが、そんなシーンを『エヴァンゲリオン』を通して描いてみせたコトに意味があるように思いました。だって旧劇では観客の頭を鈍器で殴打するようなシーンをぶち込んできたのに、今回はこんなポカポカするシーンで噛んで含めるように「さあみんな、前に踏み出そうぜ!」みたいに語りかけてくるんだから。なんなんですかこのギャップは。最後もシンジくんアスカの首を絞めたりせずに優しく語りかけたりしてるしさあ。

それは庵野監督自身の心象風景が、この長い歳月を経て変容したことの表れでもあるんでしょう。そしてトウジとヒカリ、ケンスケとアスカ、カヲルとレイ、シンジとマリといった具合に主要キャラが皆カップルになっちゃうような展開もある意味ベタですが、庵野監督自身が人生のパートナーを得たコトで大きく救われたということを反映しているんでしょうね(そういやシンジとくっついたマリは、主要キャラの中で一番第三者性が強いキャラだ)。この展開については、おそらく一生独身者の私としては「人生のどん底にいた私、でも彼女(彼氏)のおかげで救われました!」みたいな記事をWEBで読んでしまったときのような虚無感を覚えなくもありませんでしたが、私も一応は年齢を重ねてきておりますので、「ああ、庵野監督にとってはパートナーの存在というのがそこまでかけがえのないものなんだな」と相対化して受け止めたりしてました。

ラストシーンで山口県宇部新川駅庵野監督の地元が山口県なので、実家の最寄り駅だったりするんだろうか)を登場させることで、やっぱりエヴァ庵野監督のプライベートフィルムとしての性格も失っていなかったんだなと再確認できましたね。

こうして振り返ってみると、非常に「真っ当な」映画だったと思います。ある意味、とても「普通」な映画。ただ、それは「普通ができなかった」人たちが「普通」を獲得していく物語だったとも言えます。この映画を観て「エヴァの呪いが解けた!」って言えた人は、恐らくこの映画を観る前にほとんど呪いは解けていたのでしょう。だから、この映画を観て納得できる。なんだか人生の答え合わせをさせられているような気分になる映画でもあります。そういう意味では、私はまだ完全にはエヴァの呪いは解けてないかなー。困ったなー。

しかし、こうして「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」と宣言した作品に合わせて、諸々のエヴァグッズやタイアップ企画が展開されているあたりは資本主義の罪深さを感じずにはおれません。「別にサヨウナラしなくてもええんやで(金さえあればな)」というワケです。恐ろしいですね(?)。

実のところ、人生は山あり谷ありの繰り返しです。そしてエヴァも繰り返しの物語です。今は呪いが解けても、またなにかの呪縛に囚われてしまうこともあるのが人生です(ゲンドウがそれを象徴してますね)。そんなときは、またエヴァンゲリオンを最初から見直してみるのも良いのかも知れません。「普通」で居続けることも、存外難しいものですよね?