※この記事は、和歌山・大阪で真田ゆかりの地をぶらぶら ~高野山・和歌山城編の続きです。
安居神社
和歌山市で1泊して和歌山城を見物して和歌山ラーメンを食したあとは、JRに乗って大阪に戻ります。目的地は天王寺。和歌山から天王寺まで快速電車で1時間10分くらいなので、頑張れば通勤できる範囲ですね。
天王寺というとあべのハルカスが有名ですが華麗にスルーです。ていうか写真も撮ってないな。……で、JRの駅から北西方面へ向かうと一心寺という大きなお寺があります。通天閣も結構近いんですね。
が、目的地は一心寺の道路挟んだ向かいにある安居神社という小さな神社。
ここ、大坂夏の陣で真田信繁が討ち取られたとされる場所なんですね。
信繁を討ち取ったのは福井藩主・松平忠直の家臣である西尾宗次だそうですが、傷つき疲れ果てていた信繁が自ら首を差し出したという話と、西尾宗次が相手の正体を知らぬまま戦い討ち取ったという話が伝わっているようで。ドラマではどちらの話が採用されるのか気になるところですが、後者だとドラマ的にはイマイチ?
境内には信繁の像もありますが、さすがに堺雅人とは比ぶべくもありません。
なお、信繁が最後の戦いで本陣を敷いたとされる茶臼山はここからちょっと南の天王寺公園内。その前日に後藤又兵衛が討ち取られた小松山は藤井寺の方(⇒ 柏原市立玉手山公園 - Wikipedia)なんで、こちらはついでに寄るにはちと遠いですね。
四天王寺
真田とは関係ありませんが、せっかく天王寺まで来たので、その地名の由来にもなってる四天王寺にも寄ってみるコトに。
境内まで近づいたときに、やけに女子中高生の姿が目に付くなぁと思ったら中学・高校が併設されているんですね。しかも女子校。しかもめっちゃ偏差値高い。女人禁制だった歴史を持つ高野山を観てきたあとだと、なんかすごいギャップを感じます。
四天王寺は593年に聖徳太子により建立されたと伝わるお寺ですが、戦前の室戸台風と大戦末期の空襲により壊滅的な被害に遭い、主立った建築物は戦後鉄筋コンクリートで再建されたもの。それでも伽藍配置や建築様式はオリジナルに倣っているとのコトで、見た目は新しいながらも雰囲気のあるお寺でした。
ちなみに、近くにあった飛び出し注意の看板が聖徳太子だったんですが、聖徳太子ってそんなうっかりさんなのか……。
三光神社
四天王寺を観たあとは、大阪環状線の寺田町駅まで歩き、そこから北へ3駅ほど乗って玉造駅で下車。そこからちょいと歩いたところにあるのが、「真田の抜け穴」で知られている三光神社。
ここ、真田丸の東端だったとも言われる場所で、実際この辺に「真田山」っていう地名が付いてたりします。この神社もちょっと石段を登った高い場所にあり、「出丸の端っこ」と言われるとなんとなく「そうなのかもなぁ」と思えたりはします。
しかし、境内にある抜け穴はどうなんだろうねコレは……。
九度山にあった「抜け穴」は露出した古墳の石室というありがちなオチが付いていましたが、こちらの穴はある程度の奥行きはありそう。ただかなり狭そうですけどね。年に一度のお祭りで一般開放されるそうなんですが、その日にちが私が訪れた翌日という。
なお、こちらの信繁像も渋いおじさまでした。
明星学園~心眼寺
今度は三光神社の北側に降り、公園沿いの道を西に歩きます。位置的には、ちょうど真田丸の裏手にあたる、ハズ。で、ここら辺の地名が「空堀町」って言うんですね。
そして善福寺という小さなお寺が角にある交差点で南側を見てみると、結構な上り坂になってます。どこかで「真田丸の裏手には大きな谷があった」という話を見かけたときに、「大阪城のすぐ近くに谷なんてあるのか……?」と思ったりしましたが、この高低差は確かに……。
で、↑の写真の右手側にある明星学園のグラウンド付近が、真田丸の中心地だったとされる場所。学園の建物には、信繁をモチーフにした絵が飾られてたりして。
それに加えて、グラウンド脇には「真田丸顕彰碑」なんてのも。
明星学園の対面にある心眼寺というお寺には、信繁の墓まであります。なぜ。
で、明星学園の周囲をぐるっと回って大阪城方面へと北上。すると国道308号線と交差する「空堀町」の交差点が。国道には「長堀通」と名前が付けられており、さらにここまで下り坂だったのが、交差点を越えた向こう側は再び上り坂になってます。
この通りが大阪城惣構えの空堀だったんですねぇ。なんの予備知識も無いと特に気にも留めない場所なんですが、「真田丸」を知って行くとこういう地形が気になってくるんだから面白いものです。
……で、ここからそのまま大阪城まで歩いて行ったんですが、地味に距離があって足がかなりクタクタになりました。
大阪城
実のところ、結構あちこちの城に行っておきながら、大阪城って初めて来ました。すんごいメジャーな城だから行く機会なんていくらでもあるやろ、と思っていつになっても行かないっていう。私の場合、なぜか大阪ってあんまり縁が無いんですよね。
この日は大阪城の重文指定されている櫓3つ(多門櫓・千貫櫓・焔硝蔵)が一般公開(有料)されていたので、ついでに見物しました。中でも印象に残ったのは、火薬保管庫として使われていたという焔硝蔵でしょうか。
現在の大阪城の遺構は皆徳川時代になってからのモノ(豊臣時代のものは徳川が破却して盛り土をしたので、地中に埋没している)であり、この焔硝蔵も江戸時代(1685年)のもの。しかし、それでもその時代にこんなキレイな石造りの蔵を建てていたってのは結構驚き。
それから大阪城というと石垣の巨石でしょうか。↓の写真は城内でも最大と言われる蛸石と呼ばれる石ですが、……意味不明な大きさ。
最大の巨石であり、備前国岡山藩主池田忠雄が運んできた本丸桜門枡形にある蛸石の重量は最大130トンと推定され、エジプト・ギザの大ピラミッドの積石が1個約2.5トンであるのと比べ、その巨大さがわかる。ピラミッド内部にある花崗岩でさえ約80トンと言われる。また、イギリス・ストーンヘンジで最大の石は高さ6.6mで45トンである。
via: 大坂城 - Wikipedia
大阪城のすぐ北には川が流れており、これらの石も水路で運んできたんでしょうが……天下普請による築城で、幕府への忠誠の証として張り切って持って来たのかなぁ。
で、最後にもちろん天守(これは昭和の鉄筋コンクリによる再建)にも登ったんですが、超大混雑状態。最上階直通のエレベーターもあるんですが、あまりの行列の長さに目眩がして階段で上りました。足腰が悲鳴を上げておりましたが。外国人観光客もかなり多く、天守最上階では聞こえてきただけでも英語・フランス語・中国語・韓国語なんかが飛び交っており、ここが日本なのかが怪しくなるレベル。
しかしさすがに眺めはなかなかのもの。あべのハルカス(左手)と通天閣(右手)も見えますね。
なお、近くで喋っていたおねーさん達の会話により、「大阪城ホール」のコトを「城ホ(じょうほ)」と略すという事実を知りました。愛知県民にとってはなんの役にも立たない知識ですが。
今の再建天守は最上層だけ豊臣時代のものを模しているものの、それ以外は徳川時代のものに準じているようで。豊臣時代の天守は黒漆塗りですもんね。信繁が命を賭けて守ろうとした大阪城が完全に「徳川の城」になってしまったのは歴史の残酷なところですが、それでも大阪の各所に信繁の痕跡が残されているのは救いでもあるんでしょうか。
思いつきで回ってみた九度山~大阪ですが、ドラマ『真田丸』のクライマックス直前に観に来られたのは良かったかな。しかし、真田丸を造って大暴れした大阪冬の陣はともかく、普通で考えたら悲壮感溢れるものにしかならなさそうな夏の陣はドラマでどう描かれるのか、すごく気になりますねぇ。