大須は萌えているか?

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「空気」について考える2冊 『「空気」と「世間」』・『「空気」の研究』

どうやら緊急事態宣言が5月末まで全国一律で延長されるようで、まだしばらく引きこもり生活が続きそうな気配になって参りました。とはいえ、個々人の外出の可否は別に法律でなにか定められているワケではなく、あくまで「自粛」ベースであるコトを考えると、感染リスクを避ける配慮を十分にした上でなら、ある程度不要不急じゃ無い外出したって良いんじゃないの……って気もしてくるワケですが、しかしやはり今のタイミングでどこか遊びに出掛けて、SNSに「○○へ行きました~」なんて写真付きでコメントするのは憚られるような「空気」を感じるワケです。

そんな「空気」っていうのはなんなんだろな、ってコトで読んでみた本がこちら。

2009年の本みたいなので、もう10年以上前ですね。鴻上尚史氏の記事はたまにネットで『鴻上尚史のほがらか人生相談』を目にするコトはありますけど、本として読んだのはコレが初めて。ネットの記事からもうかがえるように、わかりやすい文章ですし、「空気」というものを定義する視点も面白い本でした。

著者は「空気」というものを「世間」が流動化したもの・カジュアル化したものと説き、あちこちに簡単に出現するようになったものとしています。そして「世間」とは自分と直接関わりのある世界であり、直接関わりのない世界を「社会」と定義します。んで、歴史学者阿部謹也氏の著作を引用しながら「世間」と「社会」の特徴をより細かく見ていくんですが、端的に言えば「社会」は建前の世界であり、「世間」は本音の世界であると。そして、歴史的に地域共同体の結びつきが強かった日本では「世間」の拘束が強く、「個人」というのも「世間の中の個人」として存在している、みたいな話。

さらに、「世間」にまつわる5つのルールというのがまとめられているんですが、とくに「共通の時間意識」と「差別的で排他的」というのは、なんか頷けるものがありますね。

日本の会社員は働きすぎだと言われます。といって、長時間、集中したままバリバリと働き続けている人は少数派だと、あなたも知っていると思います。働いていると言っても、その実態は、長時間の会議、長時間のダラダラ残業、長時間の打ち合わせの結果です。つまりは、会社に長くいることが、働きすぎだと言われる主な原因です。

それは、じつはお互いが同じ「世間」を生きていることを確認するために、同じ時間を過ごすことが目的となっている状態なのです。

via: 鴻上尚史.「空気」と「世間」(講談社現代新書)(Kindleの位置No.682-687).講談社.Kindle版.

自分のやるべきことはやったので、さっさと帰りたいのだけど、「ここで帰ったら皆に申し訳ない」という気持ち。そこには「個人」の時間は存在せず、「世間」で時間を共有しているというワケです。

「差別的で排他的」というのはそのまんまで、要は「世間」という共同体にとっての共通の敵を設定することで、共同体の結束を深める性質ですね。学校のみならず、社会人でも発生する組織内の「いじめ」問題も、コイツは「世間」に従っていない、と一方的に見做された人が差別されている、と解釈できます。

他の3つのルールは

  • 贈与・互酬の関係(もちつもたれつ・お互い様の関係)
  • 長幼の序(年功序列
  • 神秘性(「世間」内部で守られる「しきたり」・「伝統」)

となっており、これらのルールのいずれかが欠けた状態が「空気」=流動性の高い「世間」であり、5つすべてが揃うと、強固な「世間」になるというワケです。ただし、ルールが欠けているとはいえ、「空気」が瞬間的に持っている力は圧倒的である、ともされます。この発想は面白い、というか、妙な納得感がありました。

昔に比べると「世間」の結びつきが弱くなってきたと感じる昨今でも「空気」に支配されるコトは往々にしてありますし、なんならネット越しにでも「空気」を感じたりするコトもありますが、それはSNSなんかがもたらす「共通の時間意識」やクラスタ化による「差別的で排他的」な性格、また「神秘性」が空気を醸し出しているんでしょうね。

それから、本書の3章以降において、山本七平著『「空気」の研究』を引いているんですが、これはこれで読んでみたくなったので買ってみました。奥付を見ると、最初の単行本が出たのが1977年となっているので、もう40年以上前の本ですね。発売当時ベストセラーになったとか。

なにぶん40年前の本なので、中に出てくる事例が古くてピンと来にくい部分があったりもしますが。しかし、対象の「臨在感的把握」と、それに対する無意識の感情移入が空気を生み出す、という指摘は面白い。『臨在感的把握』とは、『物質から何らかの心理的・宗教的影響をうける、言いかえれば物質の背後に何かが臨在していると感じ、知らず知らずのうちにその何かの影響を受けるという状態』と説明されています。

人骨はそれ自体ただの物質に過ぎないが、そこにそれ以上の「なにか」を見て心理的に動揺してしまう。ただ、これはその人の宗教観なんかにも左右されるので、そこに生まれた「空気」を共有できる人とそうでない人がいる。イタイイタイ病の被害者を取材しその症例を目の当たりにしてきた記者は、カドミウムの金属棒に過剰なまでの恐れを抱くが、カドミウム自体に問題は無いと考えている人は金属棒を見たところでなんの感情も動かない。

一体、臨在感的把握は何によって生ずるのであろうか。一口にいえば臨在感は当然の歴史的所産であり、その存在はその存在なりに意義を持つが、それは常に歴史観的把握で再把握しないと絶対化される。そして絶対化されると、自分が逆に対象に支配されてしまう、いわば「空気」の支配が起ってしまうのである。

via: 山本七平.「空気」の研究(文春文庫)(Kindleの位置No.414-416).文藝春秋.Kindle版.

この考え方は、「世間」のルールでいう「神秘性」と関連しているようにも感じられますね。その「世間」の中で伝統的に信じられてきた、守られてきた思想なり価値観なりに縛られてしまうっていう。その伝統や思想が、どういった歴史的経緯を辿って醸成されてきたのか、という客観的な知見があると、おそらくその「空気」の支配からは自由になれるんでしょうね。絶対的ではなく、相対的に把握できるから。ただ、この「臨在感的把握」は長い時間をかけて形成されるとは限らず、ごくごく短時間のうちに生まれてしまうコトもあるからやっかいなんですが。今まさに進行中の、COVID-19の流行にまつわる「空気」がまさにそうですね。

もちろん、COVID-19にまつわる情報は科学的な見地から検証されている情報がマスコミを通じて発信されているワケですが、それでもやはり情報はどこかで錯綜し、主観により歪曲され、そこに某かの「臨在感的把握」が生じてしまっているのは否定できないところかと思います。もし今回の騒動が収束していったとしても、世界は元通りにはならない……なんて話も言われたりしてますが、それも結局今生まれている「空気」がそうさせる、という懸念なのかな、と。でも、この「空気」は定着していってしまうのかも知れないし、数年経った頃には雲散霧消してしまうのかもしれない。今は誰もが多かれ少なかれ何らかの「空気」の支配下にあるような気もしてしまってて、正気今の段階で「コロナ後」をどうこう言っても仕方無いような気もしますね。

そして「空気」の支配を逃れるために、対象の相対的な把握に努めようとしても、それはそれで難しいという指摘も。

だが非常に困ったことに、われわれは、対象を臨在感的に把握してこれを絶対化し「言必信、行必果」なものを、純粋な立派な人間、対象を相対化するものを不純な人間と見るのである。そして、純粋と規定された人間をまた臨在感的に把握してこれを絶対化して称揚し、不純と規定された人間をもまた同じように絶対化してこれを排撃するのである。

via: 山本七平.「空気」の研究(文春文庫)(Kindleの位置No.742-745).文藝春秋.Kindle版.

ネット社会である昨今、オンライン上に「空気」も無数に生成され、その「空気」と「空気」が対立する、なんていうコトも珍しく無い光景になっておりますが、そういうときに脚光を浴びるのは、双方の見解をバランスよく汲み取ろうとする人ではなく、どちらかの「空気」に100%肩入れしているような人だったりしますね。だいたい、双方の陣営に神輿のように担がれているように見える人がいる感じ(場合によっては複数人)。

んで、対立陣営はその相手方が担いでいる(ように見える)原理主義的な人を対象に罵詈雑言を投げつけたりするワケですが、まあこれではなかなか相対的な把握は難しい。結果、お互いさらにそれぞれの「空気」に吞まれていく、というワケです。やんぬるかな。

個人的には、SNSもリアルの人間関係も適度な距離感を保ちつつ、なるべく視野を広く持つコトが肝要なんだろうなあ、といういつもの結論になりました。特に、今みたいに「絆」がどうこうとか、「みんなで力を合わせて」なんてフレーズが飛び交う状況下においては、空気の支配力が強くなるしね……。