大須は萌えているか?

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金鶏伝説・明智光秀生存伝説までもが飛び出す脅威の山城(?)、大桑城に行った話

県外移動の自粛要請も解除され、なんだかすっかり緊急事態宣言前の雰囲気が戻ってきた感もありつつ、東京は相変わらずうさん臭い状況にある昨今、如何お過ごしでしょうか。私は先日、また岐阜の山城に行ってきました。岐阜市の北、山県市にある大桑城(おおがじょう)です。

土岐氏の城として知られる山城ですが、なんでここに行こうと思ったかといえば、『麒麟がくる』がきっかけですもモチロン。クルマのナビでは「大桑城」が出てこなかったのですが、城のちょい南に「おおが城山公園」というのがあるので、ここを目的地として行けば問題ないでしょう。

登ってみる

公園には20台くらい駐められそうな駐車場があり、ここにクルマを駐めて登山道を上っても良いんですが、ここからもうちょっとクルマで山を登っていける道があり、その先にある「はじかみ林道登山口」の駐車場にクルマを駐めて上ったほうが、手っ取り早く頂上に辿り着けるようです。案内看板によると、公園からの旧登山道で頂上まで60〜90分(けんきゃくコース)、はじかみ林道登山口からで20〜30分(ゆったりコース)とのこと。

しかしここはせっかくなので、「けんきゃくコース」を登ってみます。

マムシ注意」の警告に道三ぽいイラストが描かれているのがポイントですね(?)。道三はこの城を複数回に渡って攻め落とし美濃を掌握しているワケで、まさにマムシには注意せねばなりません。

ところどころ、岐阜城でも見かけたチャートの岩肌が見えますね。このへんの山ってみんなそんな感じなのな。

登り始めてから30分弱、早くもバテ始める。しかし、容赦無く登り道は続く。なんかここ、ひたすら登りが続いてて、一息つけるようなポイントが無いんですけど……。あと私の場合、普段ウォーキングはしているけど、山は登り慣れていないので変に体力を消耗しちゃってるのかも。

もう少し進むと、「番所跡」がありました。ちょっとだけ開けている場所で、確かにいかにも何かがあったところなんだな、というのはわかる。山頂までの行程のちょうど半分くらいのポイントになると思うので、ここでちょっと休憩するのが良さげ。

そしてここ、「足下に石垣あり」っていう案内板があるもんだから、

足下を覗いてみるとほとんど見えない。これ、斜面に降りないとわからないやつ。そして、足滑らせて斜面を落ちると這い上がってこれないやつ……。

ちょっと休憩後、再び登っていくと、今度は「馬場跡入り口」がありました。

ここにある古い看板、よく見ると「国盗り物語 ゆかりの地」って書いてあって、ひょっとして大河ドラマで『国盗り物語』が放映された当時(1973年)からずっとここにあるものなのかな……。

ただ、馬場跡が山頂方面とは逆の方向だったので、ここではスルーしました。ていうか、結構息が上がっていたので、さっさと山頂まで行きたかったっていう。

そしてもう少し進むと、ごっつい岩と竪堀が見えます。

ここ、道の両端が急斜面になっていて、そのどちらにも深い竪堀が掘られています。これはもう意図的にこういう造りになっているんですけど、道がかなり細くなっているもんだから、ふつうに歩くだけでもちょっとおっかないです。

そしてなんかテレビで観たことあるような顔が……。そういや、NHKの歴史番組・『英雄たちの選択』でも紹介されてたんでしたっけ、ここ。

このもうちょい先には、「霧井戸入口」と書かれた看板が倒れてました。これも『国盗り物語』由来か……。これも興味あるんですけど、ひとまず山頂目指したかったのでスルー。

そして、ここでようやくはじかみ林道登山口からのルートと合流します。もう山頂近いのに。てことは、この新登山道経由で来ると、途中の番所だとか馬場だとか竪堀なんかをぜんぶすっ飛ばしちゃうんですねえ。この合流ポイントから竪堀とかは割と近いので、このルートから登る方は山頂だけでなく、ちょっと旧登山道方面へ降りてみるのも面白いかもしれません。

んで、合流ポイントのすぐ先に「台所跡」と伝わる場所に出ます。こんな山城の台所って、果たしてどんな感じだったのか……。そもそもこの山、屋敷が建てられるような平坦な場所もほとんど無いような気がするんですけど、実際どれくらいの建物があったのか(基本的には皆、麓で生活していたんでしょうけど)。

そして山頂までのラストスパート、ちょっときつい登りなんですが、ここはご丁寧にロープが張られています。ちょっと真田の砥石城を思い出しましたが、砥石城に比べればよっぽどラク

そして山頂……ってなんだコレは。

どうも、昭和63年にここに設置された「ミニ大桑城」のようです。……ていうか、絶対天守なんて無かったでしょうこの城。しかも大きさとしては本当に「ミニ」で、特撮に出てくるミニチュアくらいの感じです。なんか扉も付いているんですが、中がどうなっているのかは不明。

この「ミニ大桑城」のすぐ上が山頂です。麓から、だいたい1時間といったところ。

山頂近くに、なぜか大桑城にちなんだクイズが書かれてました。なお、板の裏に正解が書かれています。

ミニ大桑城が立っているあたりが一番のビュースポットになっており、あたりの地形が一望できます。下の写真中央やや手前のスペースがクルマを駐めた城山公園で、その右にある谷筋が城下町があったとされるエリア。この谷筋の入り口あたりに四国堀があった感じになるので、そう考えるとなかなかの規模ですね。今はかなりの田舎なんですが。

んで、城山公園の上、奥のほうに見える山が金華山。写真を拡大すると、岐阜城天守らしきものもチラッとだけ見えます。この位置関係なら、道三が大桑城を攻めようと軍を動かせば、その様子は手に取るようにわかりそうなモンですが、たぶんそこは大回りをするなりしたんでしょうか。

切り井戸の「金鶏伝説」

あとは来た道を戻るだけ……なんですが、ふと興味が湧いてしまい、登ってくるときスルーした「霧井戸(今は「切り井戸」と書くみたいだけど)」に言ってみるコトに。ただここ、通常の登山ルートから外れた場所を、かなり急な坂道を降りていかないと行けない場所にあります。

その急な斜面っぷりを写真に撮るのを忘れてしまったのですが、そんな余裕が無いくらいの斜面っぷりです。ここにもロープが張られているんですが、足下が柔らかい土なので滑りやすく、マジでロープが無いと詰んでました。降りるときもロープを掴みながら少しずつ降りたんですが、それでも足を滑らせてしまい、ロープを掴んだ腕で全身の体重を支える羽目に……。スニーカーではダメだ。

そしてそんな大変な思いをしながら辿り着いた井戸がこちら。

……なんか想像していた井戸とちょっと違った。今でも水はそれなりにキレイには見えますが、昔は水量ももっと多かったりしたんですかね。そして案内看板によると、土岐頼芸が大桑城を追われる際、この井戸に家宝の「金鶏」を隠したという伝承があるんだとか。元日の朝、この井戸から鶏の鳴く声を聞いた者は長生きすると言われる……というんですが、そもそも元日の朝にここまで来るのが相当にチャレンジングだよ……。

ていうか、山の頂上近くに金鶏が埋められたみたいな話、平泉かどっかでも伝承として聞いたような……と思ったら、似たような話が日本のあちこちにあるんですねえ。

山または塚に埋められた金鶏が,多くは元旦に鳴くという伝説。長野県下伊那郡では,朝日松の根もとに長者が金鶏を埋めた塚があり,毎年元旦に鶏の鳴き声がするといわれる。このような伝説は日本全国各地に数多く伝えられており,元旦に鳴くもの,鳴き声を聞くことを吉とするもの,凶とするものなどさまざまで,長者伝説を伴っている例が多い。これは,早朝の鶏の鳴き声によって,その日1日またはその年1年の吉凶を占った習俗とかかわりがあるものと思われる。

via: 金鶏伝説(きんけいでんせつ)とは - コトバンク

似たような話がたくさんある、というコトは、大元となる話がなにかあって、それが何かを媒介に各地に広まってアレンジが加えられていったという想像もできるワケですが、一番古いのはどこなんだろう。平泉の金鶏伝説は、奥州藤原氏の黄金のイメージと結びついて「それっぽさ」があり、松尾芭蕉の『奥の細道』にも紹介されて有名になったようですが……。

誰かこういう伝承のルーツを調べている人いないのかな、とググって出てきた三重県のページによると、

このような伝説は、県内各地に残っていて、各「市町村史」や「民話集」などで部分的に紹介されたりしています。県内各地をまとめられたものとして恐らく唯一のものは、昭和三十八年に刊行された鈴木敏雄氏の『三重の金鶏伝説地』で、県下の百六五ケ所の金鶏に関する伝説地が書き集められています。

via: 6 三重県内の金鶏伝説

三重県だけで165カ所も金鶏伝説があるってどんだけだよ!そこまであちこちにあるってコトは、大元はそれなりに昔の話っぽい気がする……。うーん、気になる。

なお、切り井戸から再び登山道に戻る際にも、滑りやすい足場に苦労しつつロープと木の根を活用しながらなんとか登ったんですが、おかげで翌日上半身も筋肉痛になりました。

桔梗塚

山から下りてクルマまで戻ったあとは、まっすぐ帰らずちょっと寄り道します。

山からほど近い、クルマで10分くらいのところに、なんと「桔梗塚」と呼ばれる明智光秀の墓があるのです。

明智光秀本能寺の変を起こしたあと、山崎の合戦で秀吉に敗れ、落ちのびようとしていたところを落ち武者狩りに遭って死んだとされていますが、例によって「実は生きていて、名を変えて天寿をまっとうした」という伝承があったりするワケですね。非業の死を遂げた歴史上の人物にはだいたい付きまとってくるやつ。

じゃあ、光秀はなんでこの土地にやって来たのかというと、なんと光秀が生まれた場所もここだから、というワケです。恵那にもあった「光秀公 産湯の井戸」がここにもある……!

説明によると、光秀は土岐元頼とこの地の豪族の娘との間に生まれ、7歳のときに元頼が亡くなったことを契機に可児の明智氏の元へ行き、養子になったという話。なるほど、生まれたのはここだけど、そのあと可児へ行ったと言われれば「可能性はあるかもな」という気がしないでもありません。

ただ、土岐元頼をググってみると没年が1496年とされ、明智光秀の生年を1516年だとしても20年の開きがあり、つじつまが合いませんね。また、さらに説明書きを読むと

近くの武儀川には、光秀を身ごもった際に母が「たとえ3日でも天下を取る男子を」と祈ったという行徳岩があります。

とあり、さすがにここまで来ると作り話の臭いがプンプンします。ていうか母上、生まれる前から光秀の「三日天下」を予言していたんですか……。

あと面白いのが、お墓に続く道に立っていたのぼり。なぜか、わざわざ「春日局(光秀の重臣 斎藤利三の娘)」なんて書かれているんですよね。

こののぼりはちょっと古そうにも見えるし、ひょっとして大河ドラマで『春日局』をやってたときに作ったとか……(だとすると30年前ですが)?

徳川家光の乳母である春日局が光秀の重臣の娘だったというのも、「光秀生存説」を生むネタのひとつになっているワケですが(逆賊・光秀の重臣の娘が将軍の乳母になれるのはおかしい、実は光秀は生きていて徳川家に力を貸していたのだ、みたいな)、その場合よく言われるのは、家康の側近だったという僧・天海 が実は光秀だった、なんていう話ですね。これはなぜか日光東照宮に桔梗紋があるだとか、その日光に「明智平」という地名があるっていうところからひねり出された説なんですが、この山県市で伝わっている話はそれとはまた異なるストーリーのようです。

というのも、落ちのびてきた光秀がこの地で暮らして十数年後、徳川家康からの要請を受けて関ヶ原の合戦に赴くことになり、その道中に増水した川に押し流されて亡くなった、とされているのです。家康が関わってくるのは同じなんですが、こっちの話だとあっさり死んじゃうんですね。

ただ、明智光秀の生年を1528年だとしても、1600年の関ヶ原の合戦時点では72歳。この当時だと相当な高齢です。なんで家康が、そんな高齢の光秀に出陣を乞うたのか……ていうか、家康はここに光秀が住んでるってどうやって知ったんだ。まあ、それいったら光秀=天海説だとさらに無理があるんですけどね(天海の没年は1643年)。こういう話っていつごろから語られているものなのか、どういうきっかけで語られるようになるのか、っていうのは気になりますねえ。

明智光秀という人物は前半生はほぼ謎、本能寺の変を起こした動機も謎、その最期の瞬間も謎と、歴史上の著名人なのに謎だらけなもんだから、それをダシにいろんな場所でいろんな伝承が語られるようになったというのも、ある意味面白い話ではあります。それは光秀が政治家としては有能で、地元の領民からは慕われてたことの証明だったりもするんでしょうか。