大須は萌えているか?

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武田勝頼さんの逃避行ルートをぶらぶら

相変わらず緊急事態宣言中の昨今ですが、うちのかーちゃんが県内の山城に連れて行けと宣うので先日ドライブがてら出かけ来てきました。最近は散歩と買い物以外ほとんど外出して居らず、クルマも全然運転してなかったからまあちょうど良い機会ではあったんですけども。

武節城

そんなワケでまず目指したのは、隣に「どんぐりの湯」という温泉があることでも知られる豊田市の道の駅、「どんぐりの里いなぶ」……の目の前にある山。

こんなとこにも城があったんやな……。道の駅は緊急事態宣言など関係無い繁盛ぶりでしたが、山の方へ向かうと静かなものでした。「密」という概念が存在しない空間、素晴らしい。

山に入って少し進むとでっかい空堀の跡があり、もし私が城に攻め込んでいる立場ならばこの時点で矢を射かけられて死んでいることでしょう。下の写真だと左手が外曲輪、右手が本丸方面になるんですが、外曲輪の方に登って行けそうな道が無かったのが少々残念。

そして本丸跡。そこそこ大きく開けた場所になっています。自分らは道の駅から歩いて登ってきたんですが、反対側からは舗装路がこの本丸まで来ているので、ここまでクルマで来るコトもできるようで。

この城の名前は武節(ぶせつ)城といい、田峯城主だった菅沼定信によって築かれた城だそうな。そういや田峯城って前に行ったな(⇒ 奥三河の古宮城と田峯城をぶらぶら)。菅沼氏は元々今川⇒徳川に仕えていたものの、1571年に当主だった菅沼定忠が武田の調略に乗って徳川を裏切ってしまい、徳川方への忠義を貫くべしと主張する家臣との火種が燻るコトに。このあたりのエリア、今で言う岐阜・長野・静岡の県境が近いので、まさに武田と徳川の勢力争いの最前線だったワケですね。

この武節城は1557年に武田家臣の下条信氏が攻め落としたそうで、それ以降は武田の勢力下にあったそうな。そして、長篠の合戦で敗れた武田勝頼は菅沼定忠と共に田峯城に入ろうとするも、留守居の家臣に入城を拒まれ、やむなくこの武節城まで逃げ延びてここで1泊したんだそうな。この一年後、ブチ切れた定忠が田峯城を急襲して城内の女子供含めて皆殺しにしたという心温まるエピソードもありますが、それはまた別の話。

本丸は開けた場所になっており、物見櫓なんかがあったとされる場所には神社が建っています。

その本丸の下に二の丸、さらに下に三の丸がある構造になっており、山をかなり大規模に造成している感じしますね。

三の丸・二の丸の隣を通って本丸へと続く舗装路は大きく蛇行するようになっていますが、これも昔からの道なのかな?

城の縄張りの一部は墓地になっており、どこまでが当時からの地形で、どこからが新たに造成されたのかぱっと見よくわからんですね。

しかしまあ、長篠の合戦で大敗を喫した勝頼が傷心の一夜を過ごした場所だと思うと、なんだか趣深い場所でもありますね(?)。

長篠城

武節城のあとは、せっかくなので長篠城へ。武節城からほぼ南へ向かった先に長篠城があり、田峯城はちょうどその中間くらい。てことは、ちょうど武田勝頼の逃走ルートを逆走する格好になりますかね。

 

実のところ私、長篠城址のそばを通ったことは何度かあるものの、城址をちゃんと見るのはこれが初めて。駐車場がすでに城の縄張りの一部みたいですが、その目の前に立派な空堀が残っているのもびっくり。

あと、土塁の一部っぽいのが残されてたりしました。

本丸はただの野っ原になってしまっている感じですが、

挙げ句城の縄張りの中を飯田線が横切っていたりもします。有名な合戦地の城なのに、この扱いはなかなか……。

そして長篠城といえば、なんといっても鳥居強右衛門です。武田の大軍に包囲された長篠城を抜け出し、岡崎城まで辿り着いて援軍を要請したところ、織田・徳川連合軍が長篠へ向かう算段であることを知って籠城する仲間にいちはやくこれを知らせようと長篠城へとって返すも武田の兵に見つかり捉えられてしまい、「援軍は来ないから降伏せよ」と城に向かって叫ぶよう強要されたものの、逆に「援軍が間もなくやってくるから持ちこたえろ」と叫び、怒り狂った勝頼にその場で殺された、という逸話の人物。

このときの武田軍は二の丸のすぐ外側まで迫っていたようで、強右衛門が城内に向かって叫んだとされる場所や、本丸裏手の川向こうで処刑されたとされる場所まで残っています。とはいえ、本丸からだと川向こうは草木が生い茂ってて全然見えないんだけどさ。

大正時代には久邇宮良子女王(後の昭和天皇の皇后)がここを訪れて「鳥居強右衛門が脱出した場所に立ち往事を追懐していた」という記録もあるようで……(下の写真は良子女王御手植えの松、の切り株)。

戦前の皇国史観の中では天皇に忠義を尽くした歴史上の人物を英雄視する風潮がありましたが、鳥居強右衛門も「主君への忠義を貫いて死んだ」という点では当時のイデオロギー的にも受け入れやすく、言い方は悪いですが「利用価値のある」エピソードでもあったんでしょうね。なので、おそらく政府が積極的にこのエピソードを紹介し、皇族がこの地を訪れたのもそうした流れの一環だったのでしょう。しばしば歴史というのは権力者によって都合良く利用されるワケで……。

武田陣跡

長篠城址を見物したあとは、少し歩いて武田の陣跡へ。とはいっても、一番近い陣跡である大通寺はほんとに長篠城の目と鼻の先なんですけど。

ここには「杯井戸」なるものが残されており、織田・徳川連合軍との決戦が避けられなくなった際、武田軍の諸将がここに集い水杯を交わしたんだとか。

織田・徳川連合軍が向かってきていることが判明した際、重臣らは撤退を進言したものの勝頼は決戦を強行したとされるので、部下たちにしてみれば「これが最後」との思いがあったんでしょうか。勝頼さん、鳥居強右衛門を問答無用で殺しちゃったエピソードも含めて考えると、なんか焦りみたいなのがあったんですかねえ。

その大通寺のもうちょい北にあるのがもうひとつの陣跡である天神山、さらにその後ろに勝頼の本陣が置かれていたとされる医王寺山があります。天神山の近くにあるコミュニティセンターの名前はずばり「本陣」です。わかりやすい。

医王寺山はそこまで高い山ではなく、道も整備されているので上りやすいです。

そして山の上にはなにやら物見櫓めいたものが再現(?)されております。

櫓からの風景はこんな感じ。右手が天神山、ほぼ真っ正面の新東名の高架下らへんが長篠城です。ここからなら城攻めの様子がよくわかりますね。

ここにある案内看板によると、1575年の4月下旬に長篠城を包囲してここに本陣を置き、5月14日に鳥居強右衛門の脱出劇があり、18日には織田・徳川連合軍がここから少し西にある設楽原に陣地の構築を開始。それを受けて19日に武田軍が設楽原に向けて進軍を開始、とあるので、勝頼さん結構長いことココに居たんですね。長篠の合戦が起きたのが21日ですが、ここに居たときは勝頼さんあっという間に大敗するなんて思いもしなかったんでしょうねえ……。

武節城からここに来るまでの道のりは、クルマなら1時間そこそこで来られる距離ですけど、戦に負けたあと重い足取りで逃げ延びるには相当ヘビーな道中だったことでしょう。今ならトンネルもあるけど、当時はそんなもんも無く峠を越えていかなきゃいけないし。そして辿り着いた田峯城で入城を断られた挙げ句に危うく拘束されそうになり、さらに遠い武節城まで逃げるコトになったんだから、まー気が滅入ることこの上無かったでしょうね。

ちょっと勝頼さんに同情したくなった1日でした。