大須は萌えているか?

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奥三河の古宮城と田峯城をぶらぶら

最近ブログの更新サボりがちだったので、少し前に出掛けた話を。

あるとき唐突に城巡りにハマリ、「日本100名城」を全部見て回った挙げ句、それでも飽き足らず「続日本100名城」を巡りだしているウチのかーちゃんが、例によって城址に連れて行けと宣うのでドライブがてら出掛けてきました。とはいえ、今回は愛知県内です。……が、奥三河の方なのでなかなかの場所ですけどね。

古宮城

そんなワケで、やってきたのが古宮城(ふるみやじょう)。……すいません、今まで聞いたコトの無いお城でした。てか、「続日本100名城」で選ばれている愛知県の城って、小牧山城と吉田城とこの古宮城の3つとなっておりまして、これかなり戦国時代に詳しい人じゃ無いとわかんなくない?小牧山城はそれなりに知ってる人多そうだけど……。

古宮城があるのは新城市作手。かつては作手村っていう独立した村だったんですけど、市町村合併新城市の一部になっているというヤツです。今では新東名がわりと近くを通っているのでそこまで不便でもないですが、この城址があるのは岡崎東ICと新城ICの真ん中らへんという、かなり微妙なロケーションだったりもします。岡崎の「くらがり渓谷」がわりと近いですね。

この城は小山をまるごと縄張りとしていたようで、今は白鳥神社という神社が建ってたりもします。この社殿の裏手が城址

そして城址は林の中に存在しています。

この城は、武田信玄三河の徳川攻略のために築城させたもののようで、位置的にはほぼ岡崎城の真東、直線距離は30kmも無いくらいじゃないでしょうか。そうした徳川攻めの最前線として位置づけられた城ゆえか、かなり強固な守りを敷いた城になっていたようで。

特徴的なのは、城の縄張りを二分するように南北に大きな壕が存在しているコト。下の写真奥側が西、手前側が東です。

この二分されたうちの、西の曲輪が防御要塞としての機能を持ち、東側の曲輪が屋敷等のあるスペースだったようで。西側の曲輪を見てみると、今でも土塁のようなものが残されており、

そしてさらに曲輪を囲うように、二重三重の壕が巡らされています。なんか徹底してる。

見れば見るほど、「ああ、こりゃ人工的なものだな」っていうのが見えてきて面白い。なかなか良く当時の地形が残っているんですね。

東側の曲輪も、奥の方を見ると壕の跡のようなものがありました。

なお、当時は城の北・東・南は湿地帯だったそうで、基本的には岡崎城を向いている西の守りを固めておけばオッケーだったようです。それもあって、ここに築城したんでしょうねえ。なお、今でも西以外は田んぼや畑に囲まれております。当時はこれよりももっと沼ってたんでしょうね。

なお、100名城のスタンプは城のちょっと北にある作手歴史民俗資料館内にあるんですが、県外ナンバーのクルマも2台ほどきておりました。

田峯城

古宮城を見たあと、「ついでに田峯城(だみねじょう)を見てみたい」というコトで、古宮城の北東にある設楽町へ。こっちは100名城ではないんですが、復元された屋敷があるとかで興味があったらしいです。

この城を訪れる際の注意事項として、城へアクセスできる道がかなり狭い!運転してたので写真には撮ってませんが、対向車とのすれ違いができない狭さが結構続くので、狭い道が苦手な方はご注意を。ストリートビューで言うと、こんな道を入っていきます。

城の駐車場への入り口も狭くって、「え、ホントにここ?」という感じでした。一応駐車場自体はそれなりの広さはあるんですけど。

この城を作ったのは菅沼定信という人物で、1470年に築城。以降、菅沼氏の居城となるワケですが、1556年に当時の城主だった菅沼定継という人物が、それまで従属していた今川を裏切って蜂起したものの、実弟の定直らはこれに同調せず、一族が分裂する自体に陥ってしまったそうで。

結果として定継は敗れて自刃、今川方として戦った定直らは当時3歳だった定継の子(後の定忠)を当主として引き続き今川に仕えたようですが、その後程なくして桶狭間今川義元がおっ死んじゃったりしたもんだから、徳川に近づいて所領を安堵してもらい、以降は徳川に仕える形になったと。

ところが、大人になった定忠は武田の調略に乗って徳川を裏切ってしまい、定直らは内心ブチ切れ。家康には一族が大変なときに所領を安堵してもらった恩があるワケで、そりゃ当時ガキんちょだったお前が今でものうのうと生きていられるのは誰のおかげだと思っとんじゃいワレ的な話になりますわな。

そして1575年、長篠の戦いで武田が敗れ、定忠は敗走する武田勝頼を田峯城で労おうとするも、留守居の定直らが入場を拒否。この仕打ちに逆ギレした定忠は、一年の後に田峯城を急襲、城内に居た老若男女を皆殺しにするという惨劇が起きたそうで……ってこれめちゃくちゃ救いの無い話やん……。

なお、屋敷が復元されたのは結構最近なのか、わりと小綺麗なところです。ただし入場料が掛かります。210円。

屋敷内はちょっとした史料館みたいになってますが、ホントに「ちょっとした」感じです。

奥の広間はそこそこのスペースがあるので、ちょっとしたイベントスペースとかに使えそう。鎧も展示してあります。

ちょっとした舞台になってるスペースもあるんですね。そういや奥三河って、歌舞伎や能なんかも多く伝えられてる地域なんですよね確か。今でも田峰観音奉納歌舞伎なんてのもあるようで。

屋敷の裏手には物見台も復元されておりまして、実際登るコトもできます。ハシゴみたいな階段を上り下りしなきゃいけないけど。

ただ、そこからの眺めが実に絶景であります。ここはホントに愛知県か。

城址としてはそこまで特筆するものがあるワケでも無い感じなんですが、その歴史を知ると妙に興味深く感じられる場所ですね、田峯城。裏切りが戦国の常といえばそうなんでしょうけど、だからこそ仁義ってもんが大切な時代でもあったんでしょうねえ。