大須は萌えているか?

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徳川 vs 武田の最前線、高天神城をぶらぶら

ウチのかーちゃんの誕生日が近かったので、何か欲しいものあるかと尋ねたところ「プレゼントとかいらんから高天神城に連れて行け」と宣うのでドライブがてら出掛けてきました。やっぱりここも続日本100名城のひとつらしいです。

高天神城

高天神城静岡県掛川市にあり、鎌倉時代の頃には既に砦があったとか無かったとか。時は流れて戦国時代、この城は遠江を支配していた今川氏の支配下にあったみたいですが、桶狭間今川義元が討ち死にしちゃってさあ大変。今川氏の滅亡後徳川の勢力下に置かれるコトになりますが、場所が場所なので徳川と武田の勢力争いの最前線となり、激戦の舞台となりつつもその堅い守りには定評があったというお城。

場所としては結構海に近く、御前崎なんかもすぐそこというロケーションのため、新東名ではなく東名から静岡方面へ向かい、掛川インターで下りてしばし南下する感じ。100名城のスタンプは城址から少し離れたとこにある公民館にあるとのコトで先にそちらへ寄り、その後城址へと向かいました。

お城は北側に搦手門、南側に追手門があるんですが、駐車場は搦手門側のが近いとのコトだったので、そちらにクルマを止めました。確かにかなりの台数止められそうな感じでした。(自分らが駐めた場所の奥にも、同じくらいの駐車スペースが複数ある)

駐車場のすぐ隣には人工的に盛られたような感じの山があったので、城と何か関係があるのかしらんと思ったりもしましたが、特に関係は無い模様。なんか頂上に桜が植えられている。

どうもこの辺に桜の木を植えている方々がいらっしゃるようで、駐車場には既に花を咲かせているものもありました。

搦手門入り口には妙に立派なお城の想像図が。なんかこれだけ見ると「天空の城」って感じ。こんなんとても攻められへん。今居る搦手門は想像図で言うと真ん中からちょっと右上の山の麓、追手門は右下のところになります。

山自体は本丸のあるエリアと西の丸があるエリアの2つの峰で構成されており、その全体をお城にしている感じですかね。

そして入り口からは急な勾配を階段で一気に登らされるコトになります。今でこそ道が整備されているんですが、当時はもっと細い道しか無かったんでしょうね。

今現在、西の丸址には高天神社という神社が建っており、城址全体が神社の境内になっているような感じでもあります。城の入り口には鳥居があるし、西の丸方面へ向かう井戸曲輪の手前には狛犬も居ます。

狛犬の奥には、さらに一対の牛の像も……これどういう由来があるんだろ。

西の丸の手前にある井戸曲輪には、昔の合戦で亡くなった兵士を弔う石碑も。

この石碑の右側にある道を辿ると、二の丸に出ます。ここから北に向かって尾根が続いているんですが、どうもここが高天神城の弱点だったようなんですね。この山はかなり急な断崖が多く、麓からまともに攻め寄れるような場所がほとんど無いんですが、この尾根の西側の斜面はなんとか登れるような感じになっていると。んで、武田の軍勢がここを攻める際にはここから攻め上がり、城を手中に収めたあとはその弱点を潰すべく防備の強化を図ったと。

んで、こんな風に尾根の道を途中でぶった切った堀切が二カ所残っています。昔はここに橋を架けて渡っていたんですかね。

あとは尾根道の下にずっと空堀が掘ってあります。今でもここまでしっかり当時の地形が残っているのは良いですねえ。

武田勝頼の軍勢が攻めてきたときにはこの二の丸周辺が主戦場になったようで、西の丸の守備隊主将であったという本間氏清が銃で狙撃され死亡、その後を継いだ弟の丸尾義清も銃弾に倒れてしまったとのコトで、二人の兄弟を弔う石碑が今も残されていたりします。

井戸曲輪に戻って、高天神社にも参拝してみたんですが、さらにこんな階段を登る必要がありました。なぜか菅原道真も祀られているようで、合格祈願の絵馬もあったり……。

そこから少し来た道を戻り、東側の峰にある本丸へと向かいます。途中、城の年表や地形がまとめられた看板もあった。搦手門から登ってくると、ちょうど2つの峰の真ん中らへんに出るんですね。

かつての休憩所だったような場所もあったんですが、ベンチが壊れているわ屋根はいつ倒壊するかわからないような状態で、これさっさと取り壊すべきではないかって気がしないでもありません。

そして本丸はこんな感じ。そこそこの広さがあるので、割と大きな建物も建てられてたよーな感じはしますが、天守があったワケでは無いのかな?

そしてこの本丸からもうちょっと奥のところに「御前曲輪跡」という場所があるんですが、そこに突然観光地めいた顔出し看板と、なにやらコンクリ製の土台が現れます。

そこに立てられている看板を読むと、『昭和9年に地元出身の軍医少将が、故郷を偲び2層の模擬天守を建てられました。残念なことに昭和20年落雷によって焼失。(一説には陸軍が駐屯していたので目につきやすい事から自ら爆破させたとも……?)』と書かれてます。

なんか、どこの地域にも地元出身の名士が故郷に錦を飾ろうと妙な建造物作っちゃったって話あるよね……なんなんだろうねこの習性……。実際どんな模擬天守が建てられていたか若干の興味はありますが、そもそも2層という話なのでどこまで天守っぽく見えたのかも謎ですね。ただ、ここからの見晴らしはなかなかのものなので、2階に上って眺める風景は悪く無かったのかもしれません。

本丸からは追手門方面へ道を下ってみます。途中にあるのが三の丸。トイレにいちいち「かわやでござる」って書いてあるのなんなの。

三の丸もまあまあの広さがあるんですが、今は休憩所が作られてますね。よく見ると、周辺に土塁の痕跡は残っているようです。

そして追手門に到着。周りは急な斜面、そして登っていけるのは一本の道だけってコトになると、そりゃ守る方が絶対的に有利ですわなこりゃ。

本来は城の表玄関であるハズの追手門ですが、今では裏口の搦手門よりひっそりしているのが面白いというかなんというか。

搦手門の駐車場に戻るために山の外側をぐるっと歩いたんですが、ハタから見るとそんなに大きな山じゃないですね。写真右側が本丸、奥が西の丸方面になります。

 

寄り道

高天神城を見物していたらすっかり昼の13時を余裕で過ぎてしまっていたので、とりあえず昼飯に。ただ、城周辺は絶望的なレベルで何も無い(コンビニも無い)ので、10分ちょいクルマを走らせたところにあった「さわやか」の菊川本店でげんこつハンバーグ食べました。

「さわやか」って、この菊川本店が第一号店なんですね(ただ、最初にオープンしたときから場所は移転した模様)。菊川ってそんなに大きくもない感じの街ですけど、ここから静岡県内で屈指の人気を誇るチェーン店が誕生したというのもなかなかスゴイな。

ついでに、突端があるとつい寄ってみたくなる習性があるため、御前崎灯台にも足を伸ばしてみたりして。

200円払うと中には入れるようだったので、せっかくなので入って登ってみたんですが、思いの外高いわ風がめちゃくちゃ強いわで、やや後悔しました。

御前崎っていつも風が強いみたいで、そのせいもあってかたくさんのサーファーの姿も。この日は気温はそこそこ暖かかったとはいえ、冬の海でサーフィンするのってすげーなー……。あとここ、すぐそばに中部電力唯一の原発浜岡原発)があったりしますけど。

横須賀城

あとは帰るだけ、と思いきや、ウチのかーちゃんが「横須賀城にも寄ってみたい」と言うもんだからさらに寄り道をするコトに。横須賀城は神奈川県の横須賀にあるワケではなく、高天神城のちょい西にあったという城。日本100名城に入ってる城ではありませんが、高天神城を巡る攻防にまつわる城というコトで見てみたくなったようです。なお、こちらは平城で住宅街の中にあります。

今は公園として整備されているとのコトだったんですが、行ってみるとやたら立派な石垣があってビックリ。さすがにコレは復元されたもののようですが。

特徴的なのは石垣に使われている石。天竜川から運び込まれたという玉石を積み上げて作られており、見た目よくこれで崩れないもんだと関心してしまいます。こんな城の石垣は初めて見た。

高天神城は1568年に徳川の支配下となり、その後1571年に武田信玄に攻め寄られるも持ちこたえ、しかし1574年に武田勝頼によって奪われます。そのあと、徳川方が高天神城を包囲するように周囲に造った城のひとつがこの横須賀城というコトのようで。

高天神城を陥落させたコトで武名を挙げたとされる勝頼ですが、その翌年には長篠の戦いでの敗北があり、この流れに乗じた徳川がこれまた続日本100名城に選ばれている諏訪原城(ウチのかーちゃん、こちらは既に訪問済みらしい)を落としたコトで武田は高天神城への補給が困難になり、徳川はさらに周囲に支城を造るコトで高天神城を監視して干上がらせようとしたワケですね。

支城とはいえこの横須賀城天守台跡があり3層4階の天守があったとのこと。

本丸跡がこんな広さ。高天神城と良い勝負?

本丸跡にあった城内の模型を見ると、二の丸三の丸を含めると相当な広さがあったようで。ていうか、徳川が高天神城を再度攻め落として廃城にしたあともこの横須賀城は残して江戸時代を通して藩庁が置かれるなどしていたようで。本来の目的であった高天神城が滅んだあとも、この城はずっと生き残り続けたというのも面白い話。

なお、この模型なんか塀とかが壊されちゃってるな、と思ったら、隣にあった看板に『設置にあたっては来訪者の良識を信じ、あえて防護措置はとりませんでしたが、残念な事に設置直後から度々破壊行為を受けてしまいました。平成12年2月に修理も行いましたが、その後も破壊が続き、現在の様な状態となっております』とかなりキレ気味なコトが書かれており……。

結局、そういう残念なコトをしちゃう輩ってどこにでも居るんだよねえ……。

しかし、今まで掛川って素通りするしか無かったような場所でしたが、こうして城址を見てみるとなかなかに面白いですねえ。機を改めて、掛川城諏訪原城を訪ねてみるのも面白いかもしれない。