大須は萌えているか?

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このブログと同い年の飼い犬を見送った話

昨日、ウチの飼い犬(柴犬)が息を引き取りました(下の写真は9歳くらいのときのもの)。

……と、まあ一言で言ってしまえばそれだけの話なんですが、彼(オスです)の存在はこのブログにとっても印象深い存在だったので、ちょっとだけ語らせてください。

彼を飼い始めたのは18年前(2005年)の6月ころだったと思いますが、これってこのブログを開設して3ヶ月目くらいのことでした。これは偶然というわけでもなくって、このブログを開設したきっかけともちょっとリンクしていたりもします。とはいえ、ブログを開設した理由自体は、空き時間が結構あるから暇つぶしに……というものだったりするんですが。

なんで空き時間があったかといえば、その頃の私が無職だったからというのがあるんですが、なんで無職だったかといえば当時勤めていた仕事を辞めたからです(当たり前っちゃ当たり前)。その頃私は東京で働いていたんですが、父親が患っていたガンが進行して病院で寝たきりになってしまい、その看病を手伝うため……というのが仕事を辞めた主な理由です。それまでは母親がひとりで看病していたんですが、その頃飼っていた先代の飼い犬が死んでしまったこともあり、母親が少し精神的にまいっていたように見えたのもあります。

んで、愛知県に戻ってきてしばらくは再就職せずに看病することにしたのですが、とはいえ一日がっつり拘束されたりするわけでもなく、空き時間もあったのでブログでも書いてみようかな、と思ったのでした。ブログを書き始めたのが2005年の3月だったんですが、結局父親は4月に他界。なぜか自分が喪主を任されてテンパったりもしていたんですが、その後のドタバタが一段落したときにまた犬を飼おうか、という話になり飼い始めたのが彼でした。

彼の話は以前に何度かこのブログでも書いたように思いますが、一度も彼の名前を書いたことはありません。なんでかというと、母親の提案で他界した父親の名前を犬に付けたため、なんとなく書くのが憚られたからだったりするんですが(自分の本名を出していないのに、父親の名前出すのもなあ、と)。ともあれ、このブログを書き始めてからほぼずっと彼が家にいる状態だったんですよね。飼い始めた当時生後4ヶ月くらいだったので、ホントにこのブログと同時期に生まれてきたことになります。そこから18年生きたというのは十分に天寿を全うしたといえると思うんですが、しかしこれだけの期間一緒にいたので、やはり大きな喪失感というのはありますね。ていうか、このブログも開設して18年経つというのは自分でもちょっとビックリですが。

ここ2〜3年の間は認知症っぽい症状が進行してきて、目もあまり見えなくなってきて、そして半年ちょっと前からは後ろ足が弱ってきて自立して歩けない状態になっていたので、誰か家族が付き添っていないといけない状態でもありました。それでも、ちょっと目を離した隙に床にウンコ漏らしていたりしたんですが(犬用のオムツを履かせていても、なぜかウンコはこぼれ落ちていたりする)。夜泣きをするようにもなっていたので、夜に起こされたりすることもしばしば。まさか親ではなくペットの介護をすることになるとは……。

それでも食欲はぜんぜん衰えませんで、息を引き取った当日の朝も食事は完食。しかしその数時間後、急に呼吸が荒くなってきて吠えるようになったので、母親が動物病院に連れて行ったものの病院についたときには心臓が止まっていたようです。なんとも唐突な最後でしたが、しかし食が少しずつ細くなっていって衰弱死するよりかは良かったのかもしれません。なお、自治体の斎場だと料金はお安いんですが骨壷を持ち帰れないということで、民間の動物専門の斎場に火葬をお願いしました。火葬に立ち会うか立ち会わないかでも料金が変わるみたいなんですが、立ち会いはせずに骨壷だけもらう形に。

この18年を振り返ってみるといろいろなコトがあったとは思うんですが、あっという間だったという感じもします。光陰矢の如し。父親が他界したときにも感じたんですが、「身近な存在の死」というのは「今生きている自分」、そして「生きている時間の有限性」というものを嫌でも意識させられます。私は高い意識をもって生きているワケでもないし、「人生は 死ぬときまでの 暇つぶし」くらいの感覚でいる人間なんですが、それでも今、こうしてまだ健康を保って生きていることを噛み締めたい気分にはなるんですね。

まあそれにアレですよ、おそらくなんですが自分が生きている間には南海トラフの巨大地震も来そうだし、そうなるとおそらくそれまでの日常というのは一変するだろうと考えると、今この時というのを大事にしなければならないなあ、などと考えてもしまうのです。トルコ・シリアの大地震のニュースを見ているとなおさら。とはいえ、もっと意識高く生きていこう、というよりは、「人生楽しめるときに楽しもう、やりたいことはあまり先送りせずにやろう」というくらいのノリではあるんですが。

まあ刹那的になりすぎるのも考えものですが、「老後の楽しみ」なんてのはあんまり考えずにいたほうが良いのかな、なんて思ったりはします(そもそも父親が50代で他界しているので、自分が長生きできるのかもちょっと懐疑的)。ほんとに、自分が高齢者になっている頃の日本がどうなっているか見当もつかないし、自分がいつまで健康でいられるかもわからないので。なるべく健康を維持するための努力はしたいですが。

ゆうても、自分自身いい年になってきてそこまでギラギラした欲があるワケでもないので、なんかやりたいことが唐突に降ってきたときのために貯金と投資もしておく、という感じですかね。なにかをやりたい、と思ったときにパッとできる余裕は必要。まあ最近は欲しい物があれこれあったので、パッパと浪費してしまっていますが。

この世を去った人(犬)の存在を胸に刻みつつ、今この時を噛み締めて、楽しみながら生きていこう。