大須は萌えているか?

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週末に関ヶ原をぶらぶら 前編 ~小早川秀秋・脇坂安治・大谷吉継陣跡

今観ている大河ドラマ真田丸』でもボチボチ「東西対抗 ドキッ!武将だらけの大運動会」(関ヶ原の戦いともいう)の時期が近づいており、ちょいとまた関ヶ原をぶらついてみたくなったのでクルマで出掛けてみました。しかし今の時期日差しがキツいので、ちょっと早起きして。

松尾山(小早川秀秋陣跡)

まず行ってみたのが、小早川秀秋が陣を構えたという松尾山。関ヶ原古戦場が一望できるというので。登山口に5台くらい駐められる駐車場があるんですが、この駐車場への道のりがかなり分かりづらいです。案内標識とかなんも無いので。名神関ヶ原ICからだと、IC降りたら右に曲がり、名神の高架をくぐって300mくらい行ったところを右折。旅館の前を通り過ぎて右カーブ、左カーブを曲がった直後に右手にある道(大型車両の進入を防ぐためか、入り口がブロックでシケインになってる)を入ってしばらく行ったところ。

 

なお、自分が行ったときには駐車場に1台だけ先客がいたのですが、その後それ以上クルマが増えるコトはありませんでした。

駐車場から山頂までは1.4km、所要時間40分とのコト。自分の足で歩いたら30分くらいでした。例によって日頃の運動不足が祟りすげー息切れしましたけど。

登山道はそこそこ整備されており歩くのに困るコトは無いんですが、もちろん砂利とかが多く転がっているので最低限スニーカー履いていきたいところ。道が分岐しているところには案内標識があるし、林の中なので直射日光を浴びずに済んだのは助かりました。それでも汗だこだこでしたけど。

そして山頂到着。小早川秀秋が旗印に用いたという「違い鎌」の幟もあります。

ここからだと確かに関ヶ原の様子が西軍・東軍ともよく見えますねぇ。左手奥にある高い山は伊吹山。敗れた三成が逃げたとこですね。

松尾山から見える笹尾山(石田三成の陣)はこんな感じ。かなりよく見えます。むしろ三成さんがここに陣を構えた方が良かったんじゃ。

そこからもうちょっと右向くと東軍側のエリア。写真左にある工場が関ヶ原製作所なので、そこの手前側に福島正則が布陣してた感じでしょうか。その後ろに藤堂高虎やら井伊直政やら。

以前笹尾山に行ったときも「眺め良いなー」と思ったりしましたが、ここはもっとスゴイですね。ホントに合戦の様子が手に取るようにわかりそう。しかし、合戦開始後なかなか動きを見せない秀秋に対し家康が松尾山に向かって銃撃を行って離反を促したなんて話もありますが、それはさすがに気付かないような気が……。

脇坂安治陣跡

松尾山を下りたあとは、クルマは駐めたままちょいと歩いてみます。

松尾山のすぐ北側を走る名神高速のすぐ脇を西にちょっとだけ歩くと、脇坂安治の陣跡があります。松尾山のホントに目の前ですね。

脇坂安治は「賤ヶ岳の七本槍」の一人。この人は大阪に居たときに三成が挙兵しちゃったもんだから西軍として参戦していたものの、合戦前からずっと家康ラブ勢だったようで、小早川秀秋が悩んだ挙げ句東軍に寝返ったのは渡りに船だったようです。

真田丸』ではメインキャラの一人になっている大谷吉継は秀秋の裏切りを予見しており、松尾山がよく見えるポイントに陣を敷き、さらに脇坂らの軍を松尾山のすぐ隣に配置するコトで万全の備えをしていた……ハズがその脇坂らも一緒になって裏切っちゃったもんだから悲惨としか言いようがないですねぇ。

大谷吉継の墓~陣跡

せっかくなので、脇坂安治の陣跡から大谷刑部殿の陣跡の方まで歩いてみます。名神の下をくぐって、

東海道新幹線の下くぐって、

標識に従い歩いて行く(標識には「大谷吉継」、石碑には「大谷吉隆」(合戦前に改名した吉継の異名)と書かれているのが紛らわしい)と、

国道21号を越えた先でこんな細い道に入るように言われ、

結局また山道を歩き、

ようやく刑部殿のお墓に到着しました。松尾山から歩いて来るのはちょっと遠かった(30分くらい)かも……。

小早川や脇坂らの裏切りにより大谷軍が壊滅し、吉継は自害。そしてこの墓はなぜか東軍側の藤堂家が合戦後に建立したそうですが、そこには吉継とその側近・湯浅五助を巡るエピソードがあったようで。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで、小早川秀秋の攻撃によって大谷隊が壊滅したとき、切腹した大谷吉継介錯を務めた。この際、ライ病(ハンセン病)を患っていた吉継は、自害する前に五助に「病み崩れた醜い顔を敵に晒すな」と申し伝えて果てた。五助は主君の命を守り、吉継の首を戦場から離れた場所に埋めた。埋め終わった時に、五助は藤堂高虎の軍に所属する藤堂高刑に発見されると、「私の首の代わりに、主君の首をここに埋めたことを秘して欲しい」と頼み、藤堂高刑はそれを受けて五助の首を取った。藤堂高虎は、甥の高刑が湯浅五助の首を取ったことに喜び、徳川家康の本陣に報告した。五助の首を見せた際、家康は手柄を褒めつつ、大谷吉継の側近である五助なら主君の居場所も知っているはずと、高刑を詰問した。高刑は五助との約束を守り頑として在処を言わなかった。その姿勢に家康は感心し、自分の槍と刀を与えたという。

via: 湯浅五助 - Wikipedia

吉継の陣跡は墓からもうちょい南側にあります。標識に従い山道を5分くらいで到着。

説明書きによると吉継は三成よりも2週間近く早く現地入りし、地元民の支援を得ながら味方の陣の構築を進めていたんだとか。最初三成に挙兵の決意を聞かされたときには猛反対したという吉継ですが、やると決めたらきっちりやるべきコトをやる……いやスゴイです刑部殿。

陣跡の石碑からさらにちょっとだけ歩いたところに、松尾山展望地と言われてる場所があります。

その名の通り、目の前に松尾山が見えます。小早川秀秋を見張る気満々ですね。

んで、ここからまたクルマを駐めてある松尾山まで戻らにゃならんのですが、ここから旧中山道の方に下りられる道があったので、そちらを辿ってみました。すると若宮八幡という小さな神社の境内にでます。

ていうかここ、以前関ヶ原ウォーキングで目の前を歩いたとこでした。鳥居と本殿の間に電車が走っているっていう神社だから印象に残ってた。

この鳥居のすぐそばに駐車場もあったりする(結構最近できたっぽい)ので、大谷吉継の陣と墓を見る場合ココにクルマ駐めて、若宮八幡から登っていくのが一番良いっぽいですね。

……なんか長くなってきたので続く。