大須は萌えているか?

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週末に関ヶ原をぶらぶら 後編 ~烏頭坂/島津豊久の墓・石田三成・宇喜多秀家陣跡

※この記事は、週末に関ヶ原をぶらぶら 前編 ~小早川秀秋・脇坂安治・大谷吉継陣跡の続きです。

烏頭坂・島津豊久の墓

大谷吉継の陣跡からクソ暑い中を松尾山まで歩いて戻り、程よくサウナ状態になったクルマをエアコン全開にしながら次の目的地へ。そんなワケで、6年ぶり(⇒ 聖地巡礼:『ドリフターズ』より烏頭坂~島津塚)に烏頭坂に来てみました。島津豊久が「捨て奸」した場所ですね。

松尾山の駐車場からは結構近いですし、ここ。秋には『ドリフターズ』のアニメもやるみたいですし。ついでだから行っとこうと。島津の幟と豊久の碑は6年前と変わらないままでした。

しかし、この場所も相変わらずこれといって案内標識とか出てなくて分かりづらい場所ですね。実は関ヶ原のインターからすごく近い場所だったりします。

で、せっかくなのでそのままクルマを南へ走らせて、隣の大垣市上石津町にある島津豊久の墓へ。捨て奸で深手を負った豊久がここまで落ち延び、自害したとも言われてる場所。 盆明け間もなかったせいもあるのか、そこそこ新しそうな花が飾られていました。

ここも6年前と変わらず場所がすごくわかりにくい所なんですが、関ヶ原から国道365号をひたすら南下して、「上多良」の交差点を右折して道なりに行くのが一番わかりやすいかもしれない。右手側に見える標識が目印なんだけど、注意してないと見落としますねコレは……(⇒ ストリートビュー)。

しかし、大谷吉継の墓もそうだったんですけど、こういう林の中にひっそりとあるお墓ってすごく神聖な感じがしますね。合掌。

笹尾山(石田三成陣跡)

再び関ヶ原に引き返して、石田三成陣跡である笹尾山へ。『ドリフターズ』原画展の時にも来てるので、ここに来るのは3度目でしょうか。

結構広い駐車場もあって散策の拠点にするにも良い場所なんですが、それにしても結構たくさんの人とクルマが居ました。なんだかんだで、『真田丸』効果で治部殿の人気が上がってるんでしょうか。徳川屋敷襲撃のお話は見てて気の毒になってきましたけど。

なんやかんやで関ヶ原の戦いでもいろいろヒドイ目にあってしまいますが(ていうか逃走したところを捕縛され生き晒し⇒市中引き回しの上六条河原で斬首⇒晒し首のフルコースだったそうですが)、それはさておき笹尾山はすぐに登れて見晴らしも良いので、やはり関ヶ原に来たら寄っておきたいスポットではあります。

そういや、ふもとの島左近陣跡近くにある馬防柵が何故かひとつなぎ倒されており、これはこれでリアリティがあってよろしいかと(?)。

関ヶ原の戦いに至るまでに、家康はあの手この手で諸大名の心を掴みに行ったのに対し、三成は細川忠興にずいっと干し柿出してキレられちゃうような男なんですよねぇ……。ドラマで見ると「三成、死ぬほど不器用だけど悪い奴じゃないじゃん」と思えたりもしますが、実際ああいうタイプが身の回りに居たら、……イラッとするだろうなぁ……。

宇喜多秀家陣跡

この時点でかなり歩き疲れていたのでボチボチ帰ろうかとも思ったんですが、せっかくなのでこれまた『真田丸』にもちょいちょい登場する宇喜多秀家の陣跡にも寄ってみました。

西軍の副大将として参戦した秀家は笹尾山の南西、天満山のふもとにある天満神社のあたりに陣を構えたみたいなんですが、周辺の道がかなり細いようで東側からクルマで入っていくと結構ドハマリしそうな雰囲気。かといって、笹尾山から歩いて行く元気も無かったので、笹尾山から国道365号~国道21号をぐるっと回って、さっき徒歩で訪れた大谷吉継の墓の近くの交通量の少ない道の路肩にクルマを駐め、藤古川ダムの上を通っていくルートを辿ってみました。

ここから藤古川を挟んだ対岸すぐが天満神社なんですね。で、ここから藤古川ダムの上を通り抜けて行けばサクッと行けるという寸法。ただ、そのダムの上に抜ける道がまた分かりにくい!下の写真右手にある獣道みたいなとこを入っていくんですけど、一応標識が出てはいるものの「ホントにここで良いのか……?」 としばし迷いました。

で、この道を入っていくとダムの上に出ます。こぢんまりしたダムですね。

上流側はこんなんで、

下流側はこんなん。自然豊かです。

で、ダムを抜けてから少し林の中を歩きます。「熊出没注意」の看板があったので、ひょっとしたらクマ避けの鈴とかあった方が良いのかもしれない。ていうか、関ヶ原ってクマ居るのか。

そして神社に到着。秀家の旗印「兒」が見えます。地図で見た通り、ダムからすぐ近くでした。

神社自体は小さなもので、人は誰もおらずひっそりと佇んでいます。これはこれで味がありますね。

しかし、秀家は西軍の中でも最大となる1万7千の軍勢を率いていたみたいですが、こんな静かな山の中に1万7千の兵がひしめいていたってどんな有様だったんや……。

境内の片隅にあった石碑には「浮田秀家」と書かれてましたが、関ヶ原のあと八丈島流罪となった際に「浮田」を名乗ったとかなんとか。

石碑の近くにあった説明書きによると、「宮本武蔵が奮戦したのもこの辺りといわれています」と書かれていたんですが、宮本武蔵って関ヶ原に居たんです?

そんなこんなで

さすがにこの辺でかなりバテたので、このあとクルマに引き返して撤収と相成りました。ていうか、関ヶ原って何度か来てるけど、西軍の方ばっか見て東軍の陣跡とかまったく見てない気が。てか、西軍のが良いポジションを押さえてたから、見て回るのが面白いんですよね。

ただまー、次来るときは東軍の方も気にしてみようかな……。