大須は萌えているか?

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明日香村でキトラ古墳壁画を見物&周辺をぶらぶら その2(朱雀編)

先週末は土日とも鈴鹿サーキットに行ったんですけど、写真の整理にめちゃくちゃ時間が掛かりそうなので、今回は先々週に出掛けた話を。

6月に奈良県の明日香村までキトラ古墳の壁画を見に行ったりしてたんですけど、また新しい壁画を見にキトラ古墳まで行ってきました。前回公開されたのは石室の東壁に描かれた「青龍」でしたが、今回公開されてたのは南壁に描かれた「朱雀」。……これ東西南北コンプしようと思ったら、4回足を運ばないとダメってコトだな。

キトラ古墳

今回公開されていた「朱雀」、ホントは7月20から公開されていたんですが、ずるずる行きそびれてこのタイミングになってしまいました。8月18日までの公開だったので、けっこうギリギリのタイミング。

前回見た「青龍」は、正直肉眼ではほとんど何が描かれているのかわからないような状態だったんですが、今回の「朱雀」は肉眼でもかなりハッキリわかる状態。ホンモノは写真撮影禁止なので、下の写真は地階展示室にあるパネル。

キトラ古墳の南壁は、石室を最後に閉じる(閉塞石)役割を担っていたため、北・東・西の壁画は石室を組み上げたあとに、周囲が少し暗い状態で描かれたと考えられる一方、南の「朱雀」はあらかじめ明るい場所で描かれていた可能性が高い、と。なるほど、だからこんなに躍動的な姿で描かれているんだな(後知恵バイアス)。

南壁からは十二支の「午」も発見されたそうですが、壁にへばりついていた泥に転写された形で見つかったそうで、非常に崩れやすいために展示はできないそうな。てか、よくそれ崩れないまま保存できましたね……。

にしても、「青龍」は肉眼では見えづらかったのでアレでしたが、「朱雀」はイイですね。1300年くらい前に描かれた壁画の実物が、こうして肉眼で見られるというのは、なんか不思議な感じがします。しかもそれでいて、あまり古さを感じないんですよね。十二支が擬人化されて描かれているのもい含めて、現代のマンガなんかにも繋がっていくような雰囲気を感じてしまい……。

石舞台古墳

壁画を見物したあとは、せっかくなので寄り道していきます。まず行ってみたのは、蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳。前回「青龍」見たあとも明日香村をしばらく歩いたんですけど、石舞台は少し離れてたので寄らなかったんですよね。

石舞台も子供の頃に一度来ているハズではあるんですが、こんな雰囲気だったっけ……こんな、周囲に堀が巡らされていた記憶が全然無い。なにぶん古い記憶なので、忘れているだけかな?(Wikipediaによると、昭和30年頃には整備事業が始まっていた模様)

石室は地面の中に埋まっている感じ。整備される前はこのへん全部田んぼか畑だったみたいで、その中にこのでかい石がぽつんと置いてあった(江戸の頃は誰も古墳と思わなかった)そうで。

石室内は広い、というか天井が高い。天井の重しになってる石がめちゃくちゃデカいので、大地震来てもビクともしなさそう。

石舞台はもともとは墳丘墓だったものが、墳丘の土が取り除かれて石室がむき出しになったものと言われてますね。

土が取り除かれた理由について、蘇我氏に対する懲罰的な意味があったとする説もありますが、石舞台のボランティアガイドさんの話によると、石舞台のすぐ裏にある段々畑を室町時代に造成した際、「隣の小山の土を崩して流用した」という記録が残っているんだとか。その小山、まさに石舞台古墳を指しているのでは?という話。だとしたら、なんて身も蓋もない……!

まあ、今でこそ古墳って文化財として貴重なものとして扱われてますけど、昔は全然そんなこと無かったというか、お寺の仏足石や猿石なんかも戦国時代には山城の石垣に流用するために持ち去られてたりもしますしね。ただ、この石舞台の巨大な石は持っていけなかった(?)模様。

見物後は、すぐ近くのお店で昼食。古代米がウリらしい。

岡寺

昼食後は、これも前回寄ってなかった岡寺へ。石舞台からはクルマならあっという間の距離。建立はおよそ1300年前とされ、元々は龍蓋寺(りゅうがいじ)と言うそうなんですが、岡という地名にある寺というコトで「岡寺」と呼ばれる様になり、それがいつの間にか定着してしまったようです。俗称も歴史を重ねれば正式名称になってしまうのか。

せっかくなので奥之院まで歩いてみたんですが、なんか洞窟になってるんですね、ここ。

わりと真新しい大師堂には「健脚」の絵馬(?)が。岡寺は西国三十三ヵ所の札所でもあるので、その絡みもあるのかな。てか、西国三十三ヵ所を歩いて回ってる人って居たりするんだろうか。

岡寺に隣接する治田神社は、創建当時の岡寺があったとされる場所。

箸墓古墳

岡寺のあとは明日香村を離れ、帰る……前にもうちょい寄り道。隣の桜井市にある箸墓古墳へ。日本最古の前方後円墳とされ、年代的に卑弥呼の墓では……なんてコトも言われておりますが、

宮内庁的には孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓というコトになっています。

なので、陵墓という扱いになっており宮内庁による立ち入り禁止の看板が掲示されております。

箸墓古墳の由来は日本書紀にあるそうで。

ここのすぐ近くにある三輪山の神である大物主神と百襲姫が結婚したそうなんですが、百襲姫は大物主神の姿をちゃんと見たことが無かった。そこで姿を見せて欲しいとお願いしたところ、朝になって大物主神が小蛇の姿で登場。その姿を見た百襲姫は驚き叫び、そのリアクションを見た大物主神は頭に来て三輪山に帰ってしまったそうな。自分の行いを後悔した百襲姫は、三輪山を仰ぎ見ながらへたり込んだところ、箸が性器に突き刺さって死んでしまった……ってんなアホな。

そもそも、この古墳が作られた時代に箸が存在していたのか正直疑問。

なお、箸墓古墳のすぐ近くにある無料駐車場にクルマを駐めたんですが、その名もずばり「ひみこの庭」。

まあ、地元の観光資源的には「卑弥呼の墓」ってコトにしといた方が、ネームバリュー的には良いんじゃないかな……。実際のところは、誰が眠っているのか分からないというのが正直なところだし。

駐車場から古墳の周囲をぐるっと回って反対側に行くと、前方後円墳の形がなんとなくわかりますね。キトラ古墳高松塚古墳に比べると相当にデカい。それでも全長が278メートルとのことなので、日本最大の前方後円墳である大仙古墳の半分チョイってところ。

こういう陵墓も、ちゃんとした学術調査を許可したりだとか、生い茂ってる草木を取り払って往年の姿を再現したりすると、もっと注目を浴びると思うんですけどねえ。それを許さない力学が働いてるんだよなあ、この国は。

大神神社

さらにせっかくなので、箸墓古墳のすぐ近く、三輪山の麓にある大神神社(おおみわじんじゃ)へ。思いの外境内が広くてビビりました。さすが大和国一宮。

大物主神が鎮まる三輪山そのものを御神体とするという、かなり原始的な信仰が残っている感じのする神社。三輪山の中には今も磐座が点在しているそうで、ちょっと登ってみたい気もする。ただ、三輪山御神体そのものなので、登るときには神社での受付が必要で、山中での写真撮影は禁止、水分補給以外の飲食も禁止と、ハイキングのノリで行ってはダメみたいです。

三輪山登拝について | 大神神社(おおみわじんじゃ)

境内には展望所もあったので寄ってみたんですが、ちょっと木が邪魔かな……。

境内にあった歩きスマホを禁じる警告看板、ポケモンGOを名指ししているのにちょっとビックリ。レアなポケモンが居たりするんでしょうか。

巨大な大鳥居と二の鳥居の間を横切るように鉄道も走っており、すぐそこに駅もあるんですが、本数はあまり多く無さそうで、ほとんどの人はクルマで来るんだろうなここ。ただ、臨時の降車口も設けられており、初詣のときなんかはこの駅も賑わうのかな。お酒飲んでクルマ運転できない人も多そうだし。

大神神社の参拝後は帰路に就いたんですが、キトラ古墳壁画もせっかくなので東西南北ぜんぶ見てやろうという気にもなっており、また奈良周辺で寄り道できそうなスポットを探しておこうそうしよう。