大須は萌えているか?

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ネットで「正義の味方」が跋扈する理由を考える一冊 『人は、なぜ他人を許せないのか?』

なんか最近、またネット上の「正義」が暴走して、不適切な発言をした有名人を執拗に攻撃したり、誰かを自殺に追いやったりみたいな話を見かけたりしますが、なんでこんなことが繰り返されるのか?という疑問をお持ちの方には面白いかもしれない一冊。

そもそも、芸能人の醜聞だとかネットの炎上騒ぎなんてのは、そのほんとんどは「他人事」なのであり、その騒動が自分に直接利害を与えるというコトはまずありません(いや、こんな価値観を放置しておいたら社会全体に悪い影響がある、それは巡り巡って自分にも降りかかるのだ!って主張する人もいるでしょうけど)。それなのに、なぜ我々はそういう騒動を見ると、つい一言物申したくなってしまうのか。「悪い奴」に石を投げたくなるのか。どうもこれは単純な話のようで、「悪い奴」に石を投げるのは脳に快楽をもたらす行為だからであるようです。

他人に「正義の制裁」を加えると、脳の快楽中枢が刺激され、快楽物質であるドーパミンが放出されます。この快楽にはまってしまうと簡単には抜け出せなくなってしまい、罰する対象を常に探し求め、決して人を許せないようになるのです。
こうした状態を、私は正義に溺れてしまった中毒状態、いわば「正義中毒」と呼ぼうと思います。この認知構造は、依存症とほとんど同じだからです。

中野 信子. 人は、なぜ他人を許せないのか? (Japanese Edition) (Kindle の位置No.23–27). Kindle 版.

んで、これが脳の仕組みとしてそうなっている、という話なもんだから、誰でも「悪い奴をぶっ叩く快感」にハマってしまう危険性があると。「他人事」だからこそ遠慮無く罵詈雑言を投げつけられるのであり、そしてそうするコトによって脳が気持ちよくなるんだったら、そりゃやっちゃいますよね。

また、「人間の脳は誰かと対立ことが自然である」とも言い、そしてさらにその人間が寄り集まって形成された集団では、さらにその傾向が強くなるようです。

そして、なぜかこうした別々の集団は、互いに対立しやすくなります。集団主義とは「自己の所属している集団が集団であり続けることこそが正義」というもので、ことによってはその他の倫理観がすべてオプションになってしまうくらい強い優先度があります。 これは、集団の正義を信奉する、ということとは少し異なります。自分好みの正義があるからその集団に属するのではなく、集団の一員であることそのものが、生物としての安全性を高め、生活の効率を高めるための武器になるため、集団への所属と、所属した集団の持続そのものが最優先の目的となります。

中野 信子. 人は、なぜ他人を許せないのか? (Japanese Edition) (Kindle の位置No.854–860). Kindle 版.

うん、なんかこれ良く分かる……というか、ネットでよく見る光景な気がする。特に、特定の思想によって形成されたクラスタ間での不毛な言い争いがあれこれ思い浮かんだりしますね。そこには、互いに議論を重ねてより良い社会認識を生み出そう、なんて気配はカケラもなく、ただひたすらに互いの断絶を明確にし、罵倒し合うという1ミリの生産性も無い世界が展開されているワケです。

こうした集団同士の対立には、内集団バイアスや外集団同質性バイアスといった脳の働きが作用している、という指摘も面白い。要するに、人間「身内びいき」するのは自然なことだし、自分の属さない、見慣れない集団の連中は皆十把一絡げに扱ってしまう、というワケです。誰かの個人的な意見だとしても、それをその集団全体がそんな意見の持ち主ばかりだ、みたいな捉え方をしてしまうのはよくある話。「ネトウヨ」「パヨク」「ツイフェミ」みたいな蔑称で、「こいつら皆バカばっか」みたいな扱いをしている風景、よく見かけますね。

こうしたバイアスは、脳が複雑な処理を嫌って物事を単純に片付けようとする働きでもあり、それゆえに多かれ少なかれ誰にでもあるモノだとも言えます。結局、人間である以上、誰もが「正義中毒」に陥ってしまう可能性があるし、日常生活の中で多かれ少なかれそういう意識は見え隠れしてしまう。

私自身、時として「正義中毒」に囚われている覚えはありますし、ていうか「ネットの炎上騒ぎにかこつけて、他人の尻馬に乗って誰かを罵倒している奴らってマジ最悪、こいつら滅ぼしたい」と思うコトはわりと良くあり、これもまた「正義中毒」であることに変わりは無いんですよね。

こうした「正義中毒」に対する処方箋として、著者は「メタ認知」、自分自身を客観的に見る習慣を付けることを挙げています。また、自分や他者の愚かさを認めることも重要だと。

まず前提として、人を許せない自分や他者、相手を馬鹿にしてしまう自分や他者の愚かさを人間なのだからしょうがないと認めることです。同時に、訓練や考え方の変化などによって一時的に正義中毒状態から抜け出すことができたとしても、心身の疲れや誰かからの影響などをきっかけとして、あっという間に元に戻ってしまう可能性がある、ということも忘れてはいけません。
正義中毒に陥らないようにするカギは、先ほどお話したメタ認知です。常に自分を客観的に見る習慣をつけていくことです。

中野 信子. 人は、なぜ他人を許せないのか? (Japanese Edition) (Kindle の位置No.1622–1627). Kindle 版.

人間、なぜか自分のコトを棚に上げて他人のミスや悪い部分をあげつらったりしがちですが、そういうのも自分を客観的に見るコトで、ある程度抑制できるのかもしれません。とはいえ、自分自身を客観的に見るってなかなか簡単なコトじゃないけどね。ただ、まず「自分が今どういう感情に支配されているか」というコトは常に意識の片隅に置くべきなんでしょうね。

バッシングされている出来事から、社会をより良くするための一般的問題が浮かび上がるのなら大いに議論すべきでしょうが、個人攻撃をして、ほんのひととき痛快な気持ちになったところで何かが変わるわけでもありません。およそどうでいいことでしかありません。この「どうでもいい」という感覚が、他人に一貫性を求めないための良い距離感になるのではないでしょうか。

中野 信子. 人は、なぜ他人を許せないのか? (Japanese Edition) (Kindle の位置No.1686–1689). Kindle 版.

そもそも、SNSではちゃんとした「議論」に発展するケースが極めて稀ですからね……。議論というのは、相手を屈服させるゲームではないし、勝ち負けを決めるモノでもありません。議論をするには、相手の主張の真意を最大限汲み取り咀嚼し、「理がある」と感じられる部分は吸収しながら、お互いの意見を発展させていく必要がある。そのためには、やはり「敬意を持てない相手とは議論をするな」と思うワケです。最初から「許せない」と思っている相手と議論なんてできるワケ無いし、言葉を交わしても意味はありません。

自分の客観視する、自他の愚かさを受け入れるというのは言うほど簡単なコトでは無さそうですが、「人間なんてこんなもん」くらいの感覚で、炎上騒ぎからは距離を置く、というのは正しい気がします。というか、「正義中毒」から開放されるにはそれしか無い気がする。そして、ネットに渦巻くそうした「正義の声」が、決して世論とイコールではない、という認識が広まれば良いな……。

そういや、ネットで起きるバッシング騒動なんかに対して、「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」なんかを引き合いに出して、「理不尽なバッシングにはきちんと立ち向かわないと、いつか自分たちにもその火の粉が及ぶのだ」って主張をする人も見かけますけど、そもそも政治権力が行う弾圧と、ネットの一部勢力が吹き上がっているバッシング騒動を同一視するのもどうなんかな、って気がします。

もちろん、「正義中毒に陥るな」というのは「声を上げるな」という意味では決して無く、必要だと思えば声を上げれば良いのです。ただ、それが単なる個人や特定の外集団を叩きのめす、という目的になってしまっていないか自問せよ、というコトですね。そして、人間は必ずしも論理的ではないし、一貫性はないし、感情に左右される生き物だ、それは相手も自分もそうなのだ、というコトを頭の片隅にでも置いておくコト。それゆえ、相手の論理のちょっとした矛盾をついて「はい論破」なんてやるんじゃなくて、相手の主張の本意を汲み取る努力をしないと議論にはならないというコト。

そして、「この人(達)とは議論にならないな」と感じたなら、直接的なやりとりはせず、自らの主張のみを述べていけば良いんだと思います。その際も、あんまり相手側を腐すような言い方はしないほうが無難でしょう。

まあ、自分も時として暴言吐いちゃうときもあるしね、なかなか難しいんですけどね。ただ、少なくとも「自分の愚かさ」を自覚できる人間でありたいですね。メタ認知大事。