大須は萌えているか?

gooブログからこっちに移動しました

松永久秀の居城・信貴山城に出掛けたら朝護孫子寺に驚いた話

去年のお出かけネタを今更書くシリーズ(さすがに今は出掛けられない)。この記事を書いている翌日に放送される大河ドラマでは盛大な散り際(?)を見せてくれるコトになりそうな松永久秀さんですが、昨年その松永久秀の居城のひとつだった信貴山城へ行ってみよう……ということで奈良県の西の方まで出掛けておりました。場所としては奈良の一番西、生駒山の南ですね。法隆寺のすぐそば。もうひとつ久秀の城として有名な多聞山城は奈良盆地の東側、東大寺を見下ろす位置にあり、この2つの城で大和国を東西から固めているような格好なんですね。多聞山城の跡地は現在学校になっているので、見物するコトができないのが残念。

 

信貴山城については現地の情報をあまり仕入れないまま出掛けたんですが、城と同じ信貴山にある朝護孫子寺というお寺の駐車場にクルマを駐めていくと良い……というコトで、まずはその朝護孫子寺へ。そしたら、寺へ向かう道が途中で結構狭くなって難儀したり(古い道が多い奈良あるある)、そして駐車場の入り口についたら入場待ちのクルマが列を成していて驚きました。そんな有名なお寺なんですかここ(関西のお寺に疎いもので全然知らなかった)。

幸い入場するのにそこまで待たされずに済んだんですが、てっきりそんな混むような場所じゃ無いと思っていたので、もうこの時点で相当面食らいました。ホントかなりの人が居たので、なにかイベントがある日なのかと思いきやそうでもないみたいだし。お寺の入り口にはバカでかい張り子の虎が置いてあるし。

境内の案内図を見てみると、信貴山城跡に向かうには本堂の近くからさらに上の山頂方面へ登っていくようです。

 

せっかくなので城址に行く前に本堂にお参りしたんですが、まーなかなかの人でした。戒壇巡りもやってたんですが、さすがにちょっと感染リスクが高めが気がしたのでパス。

ただ、宝物殿で国宝『信貴山縁起絵巻』の本物が展示中(飛び倉の巻のみ、他はレプリカ展示)とのコトだったのでそちらは拝観料払って見たりしましたが、こちらはガラガラ(撮影禁止なので写真は無いです)。平安時代に成立したとされるこの絵巻、妙にコミカルな雰囲気だったり、絵巻の中で時間の経過が表現されている様が今の漫画にも通じるものを感じて面白い。しかし考えてみたら、こんな絵巻が平安時代には成立していたんだから、信仰の場としての信貴山の歴史って相当古いワケですよねえ。

その後山頂方面へ登っていったんですが、マスクしながら登ってるとまあまあ辛い。山登りに慣れてないってのもありますが。ここを登っている人もボチボチ居たので、「城址に行く人がそんなに多いのか……?」と訝ってたりもしましたが。

ただ、あとで判明したのは登っている人の99%は同じく山頂付近にある空鉢護法堂にお参りするために登っているのであり、城址にはぜんぜん人がいませんでした。てか、信貴山城址の石碑はこんな感じですからね。城址の面影がまったく無いので驚きましたが。

ただ、朝護孫子寺信貴山の南側にあり、そこから山を登ってきたんですが、城が築かれていたのは北側なんですね。そうやって山の北と南で城と寺が同居していたってのも面白いですが。なので、北側にちょっと下っていくと城の縄張りが良く分かるみたいだったので、ちょっと下っていってみることに。結構急な坂道なので、また登ってくるのがしんどいけど……。

んで、辿り着いたのが「松永屋敷跡」とされる場所。

そしたら、この山の中にめちゃくちゃ広い平坦地が造成されていてビックリ。

信貴山に本格的な築城をしたのは木沢長政という人物で、1536年頃に完成したとされます。その木沢長政が三好長慶に滅ぼされ、放置されていたところに大和を制圧した松永久秀がやってきて、大規模改築を行い居城にしたという流れ。ここの造成も久秀が行ったんでしょう。

久秀の居館があったと推定される場所は一段高くなっており、周囲には土塁が巡らせてあります。今でもかなり当時の地形が残っているの、スゴいですね。

久秀居館近くにある虎口と思われる箇所もご覧の通り。

松永久秀の城というと、天守閣のルーツとされる「高矢倉」や、これまた日本初の「多聞櫓」を備えた多聞山城の方が有名な気がしますが、信長に対し二度目の反旗を翻した久秀が織田軍と対峙し、そして最期を迎えたのはこの信貴山城のほう。信長が欲しがっていた平蜘蛛茶釜をたたき壊し、最期は火薬で爆死したなんて話もありますが、さすがに爆死はフィクションでしょうね。

久秀の悪行のひとつと言われる東大寺大仏殿焼き討ちが永禄10年10月10日、そして久秀が自害した日がそのちょうど10年後の10月10日だったというコトで、祟りだなんだと言われたりもしたようですが、まあそういう偶然も後世久秀の話に尾ひれはひれが付く原因になったのかもしれません。

ここからさらに降りていくと石垣なんかも残っているようなんですが、さすがに帰りがしんどそうなので引き返しました。帰り道、朝護孫子寺の境内に聖徳太子の像があるコトに気付いたんですが、なんで聖徳太子?と思ったらそもそも「信貴山」という名前を付けたのが聖徳太子だ、っていう話なんですね。

聖徳太子物部守屋討伐の戦勝祈願のためこの山を訪れたときに毘沙門天が現れ、その加護をもって戦に勝った聖徳太子が伽藍を建て、「信ずべき、貴ぶべき山」であるとして「信貴山」と名付けたというんですが……ホンマかいな。そして、その毘沙門天が現れた日が寅年・寅の日・寅の刻だったというコトで、この寺では寅があちこちに居るというワケです。寅の刻って夜明け前だと思うんだけど……。まさか、寅がフィーチャーされてる寺だから関西圏の阪神タイガースファンが大勢来ている、とかそういう話だったりしないよね……?

なお、そんな古い歴史を持つこのお寺ですが、久秀が織田軍に敗れた際に城と一緒にここも全焼してしまったそうです。まあ、そうなるよね……。その後本堂が再建されたのは1610年のことだそうですが、昭和にもう1度本堂は焼失しており、今の本堂は昭和33年に再建されたもの。

朝護孫子寺のあと、帰路に就く前に筒井順慶の本拠だったという筒井城にも寄ってみたんですが、こちらは完全に住宅地となっており、見事に跡形がありませんでした。場所的には、信貴山城と多聞山城の真ん中らへん。

ただ、当時は東西500m、南北400mの範囲に惣構えが築かれていたそうで、場所によっては一部堀の跡や井戸なんかも見つかっているようで。ここでは松永久秀と散々ドンパチやっていたみたいなので、防御設備にはかなり気合いが入っていたんでしょうね。地形的には思い切り平地だし。

久秀亡き後、筒井城は信長の命令で廃城とされ、筒井順慶大和郡山城へと移り、以後そこがこの一帯の中心地になっていくワケですね。大和郡山城に寄ってみるのもアリだったんですが、そろそろ帰路に就いたほうが良さげだったので今回はパス。また機を改めて行ってみたいところですが、コロナいつ落ち着きますかね……。