大須は萌えているか?

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どっちの北条氏にも縁がある場所・伊豆 韮山をぶらぶら

案の定というべきか、オミクロンさんが大ブレイクを果たしておりますね。私はずっとリモートワークやってるのであまり生活環境的には変化が無いんですが、生活に変化がなさすぎてブログに書きたい話があんまりありません。そんなワケで、去年の夏過ぎに2回目のワクチン打って世間のコロナ感染者が一段落していた頃合いに出掛けた話でも書いておこうと思います。

どこに出掛けたかっていうと伊豆の韮山あたりなんですけど、ちょうど今年の大河でホットな場所ですね。

ただ、これ大河ドラマを意識して出掛けたワケではなくって、どちらかというとマンガを読んでたら行きたくなっちゃったんです。

この『新九郎、奔る!』の8巻読んでたら新九郎(伊勢新九郎、のちの北条早雲)たちが伊豆に行く話が載っていて、ついでに蛭ヶ小島なんかを見物するシーンがあって「そういやこの辺って行ったこと無いなあ」と思い、出掛けてしまったのでした。日帰りですが。クルマで出掛けたんですが、地図を調べたら韮山のあたりに無料の駐車場があったのでクルマはそこに置き、周辺をぶらぶら歩く感じで。

 

ややこしいのが、ここら辺って新九郎(北条早雲)とも縁がある一方で、元々は鎌倉時代の北条氏が拠点としていた場所でもあって、ふたつの北条氏がごっちゃになりやすい場所だったりするんですよね。

成就院周辺

んで、まず行ってみたのが駐車場からほど近い場所にある願成就院です。

北条時政が建立したと伝わるお寺ですが、鎌倉時代を代表する仏師・運慶作の仏像が五体現存し祀られているというのがスゴイ(いずれも国宝)。時政・義時・泰時の三代に渡り伽藍の整備が続けられていたようですが、その後時代が流れてなんやかんやあった挙げ句、新九郎がこの近くにあった堀越御所を攻めた際に一緒に焼失してしまったようで。運良く運慶の仏像は戦火を免れたようですが、なんちゅうことをしてくれたんだ新九郎。

また、境内には北条時政の墓もあったりします。鎌倉で失脚したあと伊豆に流されて、晩年はこの辺でひっそり過ごしていたんですね。

さらには足利茶々丸の墓もあるんですが、この茶々丸というのは新九郎に滅ぼされた堀越公方ですね。その後新九郎はこの地に拠点を構えて、戦国大名北条早雲として知られていくようになるワケですが、新九郎自身は北条姓を名乗ってはおらず、息子の氏綱から北条を名乗るようになったみたいですが。北条を名乗るようになったのは、鎌倉時代の執権という名門のネームバリューを貰い受けたいっていう思惑もあったんだと思いますが、氏綱の正室が北条氏の血筋だった、というコトもあるみたいですね。

新九郎が攻め立てた堀越御所の跡地と伝わる場所も駐車場から近いんですが、見た目ただの野原です。

さらにこの近くには「北条政子産湯の井戸」があり、

近くの道の名前は「頼朝・政子語らいの路」となっています。ほんとに語らっていたのかは知りませんが。

北条氏の邸宅もこの付近にあったようですが、そういう場所に堀越御所を作ったというのはなにか意図的なものがあったんでしょうか。鎌倉に入れないままこの地に滞留せざるを得なかった足利政知のせめても慰め?

韮山城蛭ヶ小島

今度は駐車場から東にちょっと足を伸ばして、韮山城を目指します。堀越御所を攻めた後に新九郎(この頃には宗瑞と名乗っていたようですが、新九郎で通します)が新たに居城とした場所ですね。

んで、城があった山のふもとまでは簡単にたどり着けたんですが、どこから山を登れば良いのかが全然わからない。どうにもわからないのでたまたま近くにいた地元の方に聞いてようやくわかったんですが、下の写真の階段を登って、金網の間にある通路を進んでいくんだそう。

……いやこれわかりますか??しかも左手は学校になっていて、「学校関係者以外の立ち入りを禁止する」なんて立て看板まであるし……。

その通路を進んでいくと野球場の裏手に出まして、

どうやらこの学校は甲子園にも出場したことがあるらしいという無駄な知識(?)を得つつ、

その脇にある階段を登っていくと

神社がありまして

その右手側にある階段を更に登っていくと

二の丸に着きました。うーんややこしい。

戦国初期の山城というコトでそこまで大掛かりな城という感じでもありませんが、土塁の跡みたいなのは残ってますね。

山の一番高いところに本丸がありますが、麓との高低差は30mそこそこと、そんなに高いワケではありません。ただ、麓には堀を張り巡らしたり元々が湿地帯だった地形を活用したりして守りを固めていたみたいですね。

本丸からさらに東に見える山には、豊臣秀吉が小田原攻めの際に築いた陣城の跡なんかもあるみたいです。あと、本丸から富士山がめっちゃよく見えます。

新九郎は勢力を拡張して小田原を支配下に置いたあとも拠点は韮山に置いていたというコトなので、戦国時代の北条氏にとってもここは重要な場所だったと言えるんでしょう。小田原に拠点を移したのは2代目氏綱で、小田原城最大の特徴である総構えが築かれたのは3代目氏康・4代目氏政の頃だったっぽいので、だいぶ後の話ですね。

それから、韮山城の麓からほど近い場所にあるのが蛭ヶ小島。伊豆に流された源頼朝が過ごしたとされる場所ですね。

今見ると「なぜ小島?」という気もするんですが、当時は川の中州だったんですね。頼朝はここで20年ちょい(14歳から34歳まで)過ごしたとされますが、よくまあそれだけ長い時間を過ごして腐らずにいたもんだと……。頼朝は30歳を過ぎてから北条政子と結婚したようですが、大河ドラマにもあるように政子の前に伊東家の娘に手を出して子供まで作ったなんてい話もあるみたいなので、地元の有力者の後ろ盾を得ようとアレコレやらかしていたってコトなんですかね(まさか単なる火遊びだったってコトは無いよね?)。

蛭ヶ小島には頼朝と政子の像があったりもしますが、純愛というよりは色々策をめぐらしていた頼朝とたまたま上手くハマった(?)のが政子だった、という気がしないでもありません。

長浜城

蛭ヶ小島を見たあとは、駐車場まで戻ってクルマに乗り、せっかくなのでちょっと海の方もぶらぶら。んで、海沿いにある長浜城に立ち寄ってみました。滋賀県にある豊臣秀吉ゆかりの城ではなく、北条氏(戦国のほう)の水軍の拠点だったという城ですね。

 

地形的に波が穏やかで、築城当初から水軍の拠点として活用されていたみたいですね。そして現在でもヨットが停泊していたりもします。

築城されたのは五代目氏直の頃だったとされているので、新九郎の時代からはかなり後のことですね。関係が悪化した甲斐の武田を牽制する目的で作られたみたいですが、それから程なくして武田が滅亡してしまったため、戦略的な重要性を持っていた期間はそんなに長くはなかったっぽい。

ただ、遺構を見てみると山城としてもなかなかのもので、土塁や堀切、それに結構大掛かりな建築物の跡もあったりして、これそんなに長い間使われてなかったんだとしたらちょっともったいないな、と感じるレベル。

戦後の一時期は別荘地になったりもしていたみたいですが、わりと良く地形が残っており、きちんと整備もされているのでなかなか良い場所でした。

そしてここから駿河湾ごしに見る富士山もなかなか見事です。

長浜城を見た後は帰路についたんですが、海沿いはクルマが多く賑わっていた印象。後北条氏の史跡はまだいくらでもあるでしょうし、また機会があれば訪れたい地域でもあります。特に障子堀で有名な山中城は一度実物見てみたい。

一方で、大河ドラマ見いているうちに鎌倉にも行きたくなりそうですが。たぶん鎌倉って、子供の頃行って以来行ってない気がする。オミクロンさんのブームが終わったら、事態が沈静化していくことを祈るばかりです。