大須は萌えているか?

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天皇陵って誰が決めたんだ?を考える2冊 『検証 天皇陵』・『天皇陵古墳を歩く』

先日眺めてたニュースの中に、こんなのがありました。

奈良・中尾山古墳、被葬者が文武天皇と確定的に 八角形墳と確認、全容明らかに - 毎日新聞

これちょっと不思議なニュースで、なんで不思議かというと宮内庁文武天皇陵としているのはすぐ近くにある別の古墳(栗原塚穴古墳)なんですよね。なのに、学術調査の結果別の古墳が「文武天皇陵であることが確定的」とされた。なんでそんなことが起きるの?っていう。

私は以前、この文武天皇陵からほど近いキトラ古墳の壁画一般公開を見に明日香村まで何度か足を運んでいたので、そのときちょっと天皇陵に関する本を読んでみたりしたんですよ(なお、キトラ古墳天皇陵ではありません)。まずはこちら。

Kindle版が無いので紙の本買って読んだんですが、神武天皇から昭和天皇までの天皇陵(北朝含む)がぜんぶ紹介されています。そう、歴代の天皇すべてに天皇陵があるんですよね。つまりそれって、神武天皇とそれ以降のいわゆる「欠史八代」のように、学術的には実在が確認できてない天皇の陵墓も存在するってコトになります。この時点で、天皇陵というのは「学術的に正しいかどうか」というコトを必ずしも重視していないのが明らかなワケですね。

世界遺産にもなった日本最大の古墳・大仙古墳も、自分が義務教育受けてた頃は「仁徳天皇陵」として習った記憶があるんですが、今は「大仙古墳(伝・仁徳天皇陵)」みたいに教えるコトが多いみたいですね。これは結局、学術的には仁徳天皇陵であることの裏付けが無いので、学問の場では「仁徳天皇陵」と言い切ってしまうのは不適切、というワケです。

じゃあ誰がどうやって今の天皇陵を決めたのか、って話になるんですが、その辺の流れも上記の本の「はじめに」や第二章で触れられており、そこを読むだけでも結構面白い。一番の問題は、古墳には墓碑のようなものが一切無いというコトです。なので、墓を見るだけでは誰が埋葬されているのかわからない。そこで参考となるのが『古事記』『日本書紀』『延喜式』といった書物の記述で、そこから場所のアタリをつけて、年代的に同時代と思われる古墳を当てはめていく、みたいな流れになると。しかし『古事記』だって古墳時代末期から100年以上経ってから成立しているものなので、正直どこまで正確なのかって話にもなるワケです。

長い歴史の中で、天皇陵が「行方不明」になってしまうケースも多々あったようで、それを幕末の尊王思想の高まりと共に天皇陵をすべて治定しなおそうという動きが起き、それが「文久の修陵」という天皇陵を含む古墳の大規模修復事業に結びついていくコトになると。その流れを明治政府が引き継ぎ、天皇を権威付けるため、そして天皇家の祭祀の中に天皇陵を組み込むために、歴代すべての天皇陵が必要とされたってワケですね。かくて天皇陵は「聖域」とされ、それは戦後の今でも引き継がれているワケです。天皇陵って今でもまともな学術調査はさせてもらえませんもんね。

逆に、今回のニュースで「文武天皇陵であることが確定的」とされた中尾山古墳は、宮内庁的には天皇陵としていなかったために学術調査ができていたワケです。天皇陵と指定していなくても、皇族の墳墓と思われる古墳は「陵墓参考地」としてこれまた宮内庁が管理しているんですが、中尾山古墳は陵墓参考地でも無かったんですね。

さらに面白いのは、文久の修陵の時点では、文武天皇陵は今宮内庁が指定している栗原塚穴古墳でも無かったという点です。このへんは、以下の本で読みました。

江戸時代、元禄にも修陵事業があったようなんですが、その時点では文武天皇陵は高松塚古墳とされていたそうで、そして文久の修陵では野口王墓古墳とされたと。これらの古墳は皆ご近所同士です(中尾山~高松塚~栗原塚穴は歩いていけるレベル、野口王墓はクルマで数分くらい)。

んで、地図を見ると明らかなように、野口王墓古墳は今現在天武・持統天皇の合葬陵とされています。なぜ文久の修陵時点では文武天皇陵とされていた野口王墓古墳が天武・持統合葬陵に改められたかといえば、確定的な史料が出てきたからというコトなんですね。野口王墓古墳は鎌倉時代に盗掘にあっており、その際に行われた実地調査の史料が明治になって出てきた。これには古墳内部の詳細な記述が残されており、これが『日本書紀』や『続日本紀』にある天武点等や持統天皇の葬送の記述とピタリと一致したため、明治政府としても認めざるを得なかったというワケです。

明治政府が天皇陵の指定を改めたのはほとんど無かったコトだそうで、こうして学術的にも「誰が埋葬されている」と断定できる天皇陵古墳は非常に珍しいと(他には天智天皇陵とされる御廟野古墳くらい)。

そんなワケで野口王墓古墳から追い出された(?)文武天皇陵は栗原塚穴古墳というコトになったんですが、中尾山古墳が文武天皇陵であるとする説自体は江戸時代からあったようです。そして近年の学術調査の結果、八角墳であるコトが明らかになり、中の石室は火葬を想定した造りになっているコトもわかったと。八角墳は古墳時代末期の陵墓の特徴とされ、この時代に火葬され飛鳥に埋葬された天皇持統天皇文武天皇のみ(持統天皇は歴史上初めて火葬された天皇)というコトで、学術的には中尾山古墳が文武天皇陵である可能性が非常に高いとされていたんですね。

さらに最近の調査で、八角墳のより詳細な構造が明らかになったために「当確」報道が出たんでしょう。これを持って宮内庁天皇陵の指定を改めるのかどうかはちょっと気になるところですが、天皇陵の歴史的な経緯を見ても微妙な感じはしますね。天皇陵とは、学問とは切り離された立ち位置にある祭祀の場(宗教的施設)と言っていいような存在なので。それに今更指定を改めるなんて話、お役人は嫌がりそう。

しかし、天皇が神から人間に戻ってずいぶん経つわけですし、天皇陵の立ち位置も変わっていて欲しいとは思いますけどね。世界遺産にまで指定されているものもあるのに、学問的には謎のままってどうなのよって思うし。まあ下手につつくと大騒ぎするような人がいっぱい居るからなんでしょうけど、幕末から明治にかけて「作られた」歴史が現代の人間を縛り続けているっていうのは、それはそれで面白い(?)話ではあります。